トロイメライ
プロローグ
傘を取り違えたことに気づいたのは、家に着いてからだった。
昨晩から雨が降り続いていたので、彗太は今朝、自分の傘を持って家を出た。今の家で一人暮らしをはじめた時に買った、至って普通の、百円均一の透明なビニール傘だ。似たような傘が多いことはわかっているので、目を離すさいはいつも気をつけていたのだが、人のまばらな休日の大学の付属図書館ということで、つい油断してしまった。
「ええと・・・『チ』?」白いプラスチックの柄の部分に、黒のマジックで、片仮名の『チ』が小さく丸で囲って書いてある。こんなものを彼は書いた覚えがなかった。おそらくこの傘の持ち主の名前か何かだろう、と思うと同時に、その持ち主がこの雨の中をどうやって帰ったのかが気になった。その上、たかが安物とはいえ、こうやって他人の名前が書いてあると、どうも盗んだようで気分が悪い。
「しかたない、明日返しに行くか・・・」彗太は軽くため息をついてから、傘を部屋の入り口の扉に立て掛けた。
雨は、翌朝になっても相変わらず止む気配がなかった。まだ五月半ばなので、このあたりで梅雨入りというのは少々早すぎるのだが、ニュースの天気予報によると、今週いっぱいはこのまま雨の日が続くらしい。
『週のはじめから全国的にお天気がすぐれませんが――』
朝食のトーストをかじりながら、そんなに嫌いじゃないんだけどな、と彗太は思った。どちらかといえば雨は好きだ。実家のある長崎は坂の町と言われるだけあって、斜面が多く、長雨が降ると非常にやっかいなのだが、彼にとってはあのじめじめとした感じが懐かしくもあり、また、夏の気配を感じさせるものでもあった。
『かわって、今日の近畿地方のお天気です。大阪府北部は――』
そこまで聞いて、彗太はテレビのスイッチを切った。そろそろ大学に出かける時間だ。彗太は昨日入り口のところに置いた『チ』の傘を手に取り、少し迷ってから、それを差して行くことにした。彼自身、この一本だけしか傘を持っていないのだ。
大阪府北部は雨、正確な気温はわからないが、少し肌寒かった。
午前中の授業が終わると、彗太はそのまま大学図書館に向かった。外に出てみると、朝方よりも少し雨脚が強くなっていた。そのせいか、昼休みだというのに中庭を歩く学生の姿はほとんどなかった。
図書館の傘置き場は、建物の入り口を入ってすぐ、二重になっている自動ドアのうち内側の扉の手前にある。鍵などは付いておらず、ステンレス製の格子の間に一本ずつ傘を差し込むようになっている。昨日よりも本数が増えた傘の中から、彗太は目で自分のものを探した。しかしそれは見つからなかった。
「あれ・・・ない」似たようなビニール傘は何本かあったのだが、よく見ると、形や大きさなど、いずれも多少の違いがある。『チ』の傘と自分のものとを取り替えるつもりだった彗太は少し困った。誰かが持って行ってしまったのだろうか。
「それ、私の」
彼が傘立ての前で迷っていると、誰かが突然後ろから声を掛けた。驚いて振り向くと、同じ傘を持った女子学生がひとり立っていた。
「その傘、たぶん私の傘」彼女はもう一度言った。そして、少し訴えかけるような目で彗太を見た。「これ、あなたの?」
彗太は何も言えないまま、差し出された傘を手にとって見た。持ち手のところに店のシールが張りっぱなしになっている。確か自分のものもそうだったと、彗太は思い出した。
「悪い、似てたから間違えた。昨日困らなかったか?」
「あ、ううん・・・」彗太の言葉に、彼女の目から少し警戒の色が薄れた。「間違えられたんだろうなって思ったし・・・それ、自分のじゃないってわかってたんだけど、つい持って帰っちゃった。ごめんね」
そう言って、彗太の手から自分の傘を受け取ると、彼女は柄の部分に書かれた文字を確認した。
「『チ』?」彗太は思わず尋ねた。
「え?」
「『チ』って、片仮名でそこに書いてあるだろ。それ見て間違えたって気づいたからさ」
彼女はもう一度その部分を見て、ああ、と納得した顔をした。
「片仮名じゃないよ、漢字。千円札の『千』って書いて、『ゆき』って読むんだ」
「あっ、そうか、ごめん」
ううん、と彼女は首を振り、それから右手首にした金の鎖の腕時計を見た。
「私、もう行くね。じゃあ」
「ああ、うん、じゃあ・・・」
彗太はそのまま、雨の中を走っていく彼女の姿を見送った。これ以上図書館に用があるわけではなかったのに、なぜかその場から動くことができなかった。確か、ずっと前にもこんな光景を見た気がする。
「鶴子・・・?」
彼女もまた、こうやって雨の中へと去っていったのだ。