ベッキー
辺りは暗く、ベッキーが横たわる僕の顔のそばに座っているために、視界はほとんどベッキーの陰毛に包まれている。僕の首の骨は折れているのか、痛くて痛くて目を反らすことができない。
「そこの崖から飛び降りてよ」とベッキーは言う。
「そしたらイケそうなの」
僕は何か言おうと思う。口の中に血の味が広がって、痛さで舌が動かせない。舌が、はさみで縦に何本か切れられてあるのだ。
「聞いてる?」とベッキーは言う。
「飛び降りるの、そしたら、あたし、イケる気がするの」
ソシタラ、アタシ、イケルキガスルノ。
<聞こえてるよ>と僕は答える。頭が痛くて痛くてたまらない。吐き気も酷い。
<できないよ、わるいけど>
「なんでよ」とベッキーは言う。
「なんで」
<体が痛くて死にそうなんだ>と僕はいう。<俺の足どうなってるの?動かないし何も感じないよ>
「ふうん」とベッキーは言う。「あんたいつもそうよね」
<なにが?>
「なんだかんだ理由つけて逃げる」
<逃げてない>
「逃げてる」
<逃げてないし、第一、逃げられない>
「だから無理なんだ?」
<それだけじゃないけど>
「何が」
ベッキーの背後から、水の流れる深い音がする。崖はすぐそこにあるのだ。
僕が飛び降りる深い崖。
<昨日あんまり寝てないんだ>
「ふうん」
<昼も、ほとんど食べてないし>
「何食べたの」
<お好み焼き>
「ふうん」
と言ってベッキーは鼻をすすった。きっと寒いのだ。僕にはわかる。
「それで?」
<あと、ワンデーのコンタクトを三日も付けっぱなしなんだ>
「へえ」
<ホントだよ>
「そう」
<四日目だったかな>
「どっちでもいいよ」
<うん>
僕はいつしか悲しくなっていた。
ごめんよベッキー、さっきからの話は、ほとんど全部嘘っぱちなんだ。
本当は昨日はぐっすり眠れたし、お好み焼きと焼きうどんも食べた。コンタクトはいつも平気で一週間くらい使ってるんだ。
「ねぇ、そんな事どうでもいいからお願い」とベッキーは言う。「焦らさないで、早く」
崖の向こうからでなく、僕の顔の近くから水の気配がする。バラを海水で洗ったような匂いだ。
ああ、ベッキーは本当に、もう少しでイケるのだ。彼女は生と死の接点で、切実に絶頂を求めているのだ。
可哀相なベッキー。君の頬に触れたいけれど、縄がきつく食い込んで、指が使い物にならないんだ。
<ねぇ>と、僕は尋ねる。
<その崖から飛び降りたら、俺はどうなるのかな>
「死ぬわよ」と、ベッキーは答えてくれる。
「あんなに高い崖だもん、当たり前でしょ」
僕は目を閉じて、考える。ほうって置いたって、そのうちに僕は死ぬだろう。死因なんて、どれが致命傷なのか判別できないくらいだ。だったら、ベッキーの一瞬の快楽の為に、僕の体を使うべきなのかもしれない。
でもね、ベッキー。と、僕は思う。
僕は生きていたいんだ。
ボクハイキテイタインダ。
<ねぇ>と、僕は最後の質問をする。
<死んだら、俺はどうなるんだろう>
ベッキーは笑って、答える。
「あなたは私の赤ちゃんになるのよ、崖の下の河と、私のお腹は同じだもの」
ベッキーはもうさっきまでのベッキーではなかった。彼女はいつしか枯れた老婆だった。僕は目を開けたわけではなかったが、臭いでそれがわかった。
これは賭だ、と僕は思う。彼女の言葉が真実だとして、歳老いたベッキーに、僕を産む力があるだろうか。でも、僕は決断しなくてはならない。
誰の為に?
僕の為だろうか?ベッキーの為だろうか?
もしくは、ベッキーから産まれてくる、新しい僕の為だろうか?
何だって構わなかった、僕にできることは、閉じた目を開き、決断を言葉にするだけだ。
でも、それは決断なんかではなかったのだ。
僕はただ、命そのものに向かって、祈っていただけだった。
<ベッキー>