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幽霊

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美和子は幽霊が見れた。それ以外は、普通の女の子だった。

僕らは二人でよく散歩をした。冬はすぐそばで、夏は少し離れて、手をつないで、歩いた。
美和子と僕は、けっこう長い距離を歩いた。彼女はいつも、じっと俯いて、あまり喋らなかった。
僕にはいつもそんな美和子が、何かを探しているみたいに見えた。毎回、同じ道を俯いて歩くのはきっと、彼女がいつかこの辺りで、何かをなくしたからだ。そんな気がした。

「雨の日は嫌い」と、美和子は言った。

「俺だって、そんなに好きじゃない」と、僕は言った。
「どうして」と、美和子は僕に尋ねた。
「どうしてって」と、僕は言って、「そりゃあ、俺はいつも外で働いてるからさ。」と、何気なく発した言葉の先を捜した。
「雨が降ると、機材が濡れるといけないから、そりゃあ気を使うんだ。特殊なレインコートがあってさ、三人がかりで車両に一台一台かぶせていくんだ。それに、体力だって奪われる。体がだるく、重くなったような気がして、雨ガッパの下でじとじと汗をかいてさ。あんまりそういうのって、楽しいことじゃないんだよ。誰だって、そうだよ」
「ふうん」と、美和子は言った。
「うん」と、僕は言った。

僕らはいつも、夕暮れの河川敷を歩いた。
夕暮れにならないと僕は仕事が終わらないし、美和子はその川沿いにある入院中の病院から、そんなに遠くへ行けない。お互いの等距離が、この散歩を自然に生み出した。太陽と月の距離が、今の地球の生命をつくったみたいに。
その日は秋で、涼しくて、風がやさしかった。ふたりをなでている様な、くすぐったい、木の葉を揺らす風だった。

「私は、雨の日になると、首が痛くなるの」と、美和子は言った。
「うん」と、僕は言った。美和子が具体的に病気のことについて話すのは、その日が初めてだった様な気がする。
「最初は、肩がこったのかな、くらいの、ちょっと変かも、くらいの感じがするの。で、だんだんその感覚が大きくなっていって、じーん、じーんって、嫌な痛みになっていくの。それくらいで、やっと気づくのね。『ああ、またあれが来た』って。」
そして、美和子は、僕と手をつないでいない左手で、自分の首の後ろに触れた。
「そうなったら、もう悲惨よ。ナースコール押して、薬もらって、飲んで、後はずっとベッドに伏せてるの。枕に顔うずめて、私、なにも考えないようにするの。お母さんが、大丈夫、とか聞いてくるんだけど、ぜんぶ無視するのね。悪いな、とかは思うんだけど、それどころじゃないのよ、本当に。その、じーん、じーん、がね、果てしなく大きくなっていくの。私なんかよりずっとずっと、大きくなっていくの。じーん、じーんっていいながら、病室より大きくなって、病院より大きくなって、街を超えて、空をつつんで、何もかもより、そのじーん、じーんって痛みが、大きくなっちゃうの。私はただ、その痛みが通り過ぎるのを待つしかできないの。もらう薬は、ただの睡眠導入剤と生理とかのと同じ、ただの痛み止めだから、ぜんぜん効かない、気休めでしかないやつなのね。それで、もう私は、ひたすらなにも考えないことを考えるの。何か頭の中を過ぎりそうになったら、『だめだ、だめだ』って打ち消して、階段を下りるみたいにして、私の中に帰っていくの。そうしたら、どんどん自分が薄くなっていって、意識が、もやもやの中に入り込んでいくの。私は、私の大きさすらよくわからなくなっちゃうんだけど、それが一番、楽な状態だから、私はいつもそれをやるの。」

美和子は僕のほうを見なかった。僕も美和子を見なかった。美和子がそんなに喋るのは、本当に珍しいことだった。彼女はいつだって僕に話をさせて、じっと話を聞くほうに回りたがるくらいだった。


「だから、雨は、嫌い。」と、美和子は言って、それきり、黙った。
僕も、黙った。なにも思いつかなかった。
しばらくしてから、僕は彼女の眼の周りが、ちらちらと街路灯に照らされてきらめくのに気づいた。美和子は化粧をしていた。ラメを、まぶたに塗っているのだ。

「君にかける、特別なレインコートがあればいいのに。」と、僕は言った。
美和子は、僕のその言葉で、少しだけこちらに視線を向けた。
「俺が仕事で使ってる、機材車両を守るためのみたいなね、君をすっぽり覆っちゃうレインコートが、あればいいんだ。そしたら、君はそんな目にあわなくても済むだろ。雨が降るたんびに、君はその中に入って、雨が止むのを待てばいいんだ」と、僕は言った。
美和子は、また俯いて、「私、そんなのに入りたくない」と言った。
僕は少しだけ、しまった、と思いながら、続けた。
「そのコートはね、むちゃくちゃ軽くて、でかくてさ。あの病院なんかより、この街よりも、ずっとずっとでっかいんだ。それで美和子ちゃんも、病室も、この河川敷も、ぜんぶ、ぜえんぶ包んじゃうんだ。そんで、雨が来たって、こうやって平気な顔して、俺と散歩するんだ。そして晴れたら、コートをはずして、また美和子ちゃんが太陽を見つけられるようにさ、すればいいんだよ」と、僕は言った。僕は喋るのが、昔から嫌になるくらい下手糞だった。僕は身振り手振りで、足りない言葉を補った。

「馬鹿ね」と言って、美和子は笑った。
「そんなに大きなレインコート、どうやって着けたり取ったりするのよ」
僕は、ちょっと考えて、言った。
「もちろん、俺と、このまえ一緒にお見舞いに来た、あのうるさい馬鹿二人と、三人でさ。俺たちは雨ガッパ当番なんだ。一枚くらい仕事が増えたって、なんでもないよ」

そうして二人は、やっと、笑った。


二人はそれから、初めてのキスをした。美和子は僕の手を取って、服の中に手を入れさせた。美和子の体はびっくりするくらい、熱かった。


美和子が病室に帰ってからも、僕は情けないことに、うまく色んなことが考えられないくらい、うろたえて混乱していた。
「ありがとう」と、美和子は言った。
「また、あさってに来るから」と、僕はそれだけ言って、美和子の手のひらを指でなでた。美和子も、僕の指を小さく握り返した。
これからなにもかもが、良くなっていくような、そんな気がした。

でも、その夜に美和子は幽霊を見た。





その幽霊は首の無い男で、美和子の病室の窓から入ってきて、天井に逆さにぶら下がった。
美和子は震えて、病室のベッドの毛布を必死で握り締めた。汗が噴き出して、心臓が鼓動し、血が激しく体中を駆け抜けた。
幽霊は天井から壁伝いに美和子のほうに這って、ベッドの脇に立つと、恐怖で動けない美和子の上に覆いかぶさり、血と雨で濡れた汚いシャツを脱いで、おびただしく蛆虫が湧き出した自分の胸を美和子に見せた。美和子は絶叫した。自分の顔の上に、蟲がぼどぼど落ちてきたのだ。

幽霊はその声をいとおしそうに聞きながら、美和子の首を撫でて、ベルトをはずし、ズボンのチャックを下ろした。





その夜、幽霊は一晩中かけて、思うさまのことをすべて、やりたいだけ、美和子に、実行した。

作品名:幽霊 作家名:追試