バスに乗って
三咲はずっとそう思っていたので、父親がずっとまえから死んでいることを、家族の誰にも言わなかった。
バスに乗って通勤する父の耳からは蛆虫が出入りしている。
脳が腐って、ハエの巣が中にできているのだ。
三咲は揺れるバスの中で、その様子を凝視する。
父の頭は今や、ハエの卵と幼虫でぎっしりなのだ。
「じゃあ、三咲、気をつけてな」
と言って、死んだ父は折れた足を引きずってバスを降りようとする。
三咲の降りる学校前のバス停は、この三つ先だ。父はいつも先にバスを降りる。生きていても死んでいても、それは変わらない。
父が歩くたびに、嗅いだことも無いすえた臭いがバスを通り抜ける。
「いってらっしゃい、父さん」
と、三咲は声をかける。
悲しみなんて、痛みなんて、感情なんて。
そんなものいくら集めたって、このバスみたいに、いつかその時が来たら、すっと私はどこでもない場所へ運ばれてしまうんだわ。
と、まるで濡れた冬の夜みたいに、三咲は考えた。
父は、(そうではないよ)と愛する娘に言ってやりたかった。
人間というのは、失ってはいけないものを失ってしまう生き物なんだ、失ってなお生きていくのが人生なんだ、と、父は三咲に駆け寄って、抱きしめて、伝えたかった。
でも、それは出来なかった。
父はもう既に死んでいるし、折れた足でなんとかバスを降りるのが、彼には精一杯だったからだ。