小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

資格

INDEX|1ページ/1ページ|

 
「私は昔からあんまり泣いたりする子じゃなかったの。」と美香子は言った。

「小学校の時、遠足のバスに置き去りにされて、半日ずっとテラスに座ってお菓子食べてたことあるの。そこがどこかは正確には覚えていないんだけど、大きな駐車場が目の前にあったから、どこかのサービスエリアだったのかもしれない。夕暮れになって先生が三人、真っ青な顔して私を見つけて走り寄ってきて、ずっとここに居たのか、って私に聞いたの。
 だから私、ずっとここに居ましたって答えたの。

 その時も、先生が迎えに来るまで、私一度も泣いたりしなかったの。いままで見たことのない場所に突然、ひとりきりで置き去りにされても、私は少しも動じたりしなかったの。その時の感情を今でもはっきりと私は思い出すことができるんだけど、私はとても落ち着いてたの。
 私はね、みんなとはぐれたなって気付いた時、最初にテラスのテーブルに、持っていた荷物を全部出したの。そうして、ひとつひとつ自分が何をいま持っているか確認したの。お弁当と割り箸、水筒、遠足のしおり、帰ってから感想を書くための原稿用紙が二枚と、ふでばこ。筆箱の中にはえんぴつが4本と、消しゴムと、鉛筆削りと赤いボールペンが一本入ってた。あとはキラキラしたサンリオのシールがいくつか。自由帳とビニールシート、長袖のウィンドブレーカー、小さいタオルが一枚とポケットティッシュ。あとは、現金が1000円はいった小銭入れと、たくさんのお菓子。それだけ確認して、私はお菓子の袋以外は、また全部リュックの中に戻したの。

 私は少しも慌てたりはしてなかった。すごくすごく冷静だった。でも不思議だけど、周りの誰かに助けを求めようとはしなかった。その時の感情はいまでもよくわからないけど、今になってみて言葉にするんなら、私は、私を飲みこんでどこかに運ぼうとする大きな流れのようなものから、自分が今いる地点を絶対に譲っちゃいけないと思ったの。それはすごくはっきりと予感があったの。今あるものでここに居るんだ。それ以外に方法は無いんだ、っていう確信があったの。

 だから私は少しずつ少しずつ時間をかけてお菓子を食べたの。食べ続けたの。」

 そこまで言って、美香子はコンビニで買ってきた紅茶を飲んだ。ミキタカ君は後ろから彼女を抱きよせて、美香子の長い髪の中に自分の鼻を潜らせた。久しぶりの香りだった。それが鼻の奥を通って、気管を伝わり、肺に入って膨らんでいくのをミキタカ君は感じる。美香子はベッドのシーツを指でなぞって、話の続きを探した。

「私にとってはね、それは想定されていた状況だったの。常に起こりうる可能性があると、予期されていたことだったの。」と美香子は言った。
「遠足のバスに乗りそびれることを想定してたわけじゃないよ。そんなのわかるわけないじゃない。わかってたら乗ってるよ。」
「うん」とミキタカ君は目を閉じたまま応える。

「私はね、この世界から、私が毎日を生きている、当たり前だと思ってる世界から、いつ理不尽に切り離されたとしても、自分がバラバラになってどこでも無い地点に運ばれて行ったりしないように、そのための心の準備をしながら生きてたのよ。だから対応できたのよ。突然世界が音を立てて崩れても、音なんか立てる暇もなく形をいびつに変えたとしても、私は決して泣きだしたり混乱したりして、自分を失くしてしまったりしないようにしなくちゃと、思っていたの。その考え方を、小学生のころからこうやって言葉にできたわけじゃないけど、私の心の中には、そのための精巧な装置が組み立てられ続けてきたの。

 信じられる?本当に小さいころからずっと、私はそうやっていつでも自分の心を冷やしていられるように注意深く生きていたのよ。今まで、私はどんなに悲しいことや理不尽なことがあっても、その時の出来事と、私は今でもその時とほとんど同
じことをするのよ。自分の持っているものを改めていちど全部洗いだすの。どんな些細なものでもいいから、自分がいま現実的に何を所有していて、どういう繋がりの中に含まれているのか、それを整理するの。

 私は預金の数字を確認して、自分の持っている服の数を下着までちゃんとかぞえて、部屋を整理して、これからの生活に必要なものと必要でない物を整理するの。不必要なものは極力捨てたりして、写真や絵でも、できる限りはきちんと処分するの。自分の持ってる資格と保険をまとめてあるファイルを出してきて読み返して、いちばん最近の、献血に言った時の検査のデータに目を通すの。携帯のアドレス帳を読み返して、三年以上連絡してない人はできる限り消去する。仕事場のメモ帳や資料をまとめておく。段々とそうやって、自分の状況を整理していくの。そうすれば、現実の生活というものから振り落とされることはまずないから。生活を守ることで、私は私の存在の芯みたいなものも一緒に守っているのよ」

 窓の外で雨が降り始めた。どこからともなく夜が、闇を引き連れて近づいてくる。ミキタカ君は、美香子とはぐれてしまわないように、暗闇に二人が引き裂かれてしまわないように、彼女を抱きしめる白くて細い腕に力を込めた。

 雨も夜もまだ今は、この部屋に侵入することはできなかった。でも、美香子の心にある箱の装置からは、まだぬるい水があふれ続けた。このまま時間が経ってしまえば、そのぬるい水が部屋を満たしていくだろう。


 でもそれをミキタカ君は知ることができない。彼にはその資格がない。
作品名:資格 作家名:追試