赤い月
唯子が薄暗い自分の部屋の中で遺書を書き始めた時、彼女はまだ14歳だった。
中学校の授業で使うルーズリーフを五枚、机のはじに綺麗に端をそろえて置くと、唯子は最初の紙を自分の目の前に持ってきて右手の指の腹で撫でた。それは、学校の授業でいつも触れている上質紙の感触とはまるっきり違って感じられた。いつも無意味で規則的な行線が薄く印刷されているだけの紙ではなくて、まるで何処か遠い村の地図に触れているかのように感じられる。そこにはちゃんと温度があり、凹凸があり、誰かの生活がある。
唯子は少しだけ迷って、学校で使っている筆箱から細くて赤いペンを取り出す。それは唯子が初めて自分で選んで買ったペンだ。鈍く金色に光るフックの部分を回すと、赤いボールペンと、黒いボールペンと、シャーペンの三つが交互にバネ仕掛けで筆先に飛び出てくる。唯子はそれを一番使い慣れた黒いボールペンに切り替えると、ぐっと力を込めて最初の一行を書きだす。
≪この手紙は、わたしが死んで、いなくなってしまった世界のために書かれた手紙です。わたしという、<樫本唯子>と言う存在が世界から消えて無くなった、その世界に、わたしの不在を埋め合わせるために書かれた手紙です。≫
最初の一行を書くと、唯子はそれを三回読み返してから手櫛で髪を束ねて髪ばさみでまとめた。卓上のデジタル時計を見ると、午前零時を表示している。その下に、この部屋の湿度は57%で、温度は27℃だという表示がある。それをじっと見つめる。
唯子はふと、今ならこの手紙を最後までちゃんと書き切れるような気がした。ずっとずっと自分の中で形にならなかったものをおびき寄せて、ぱっと一息に捕まえてしまえるような気がした。
≪わたしはずっとずっと、こころの中で感じ続けてきたことがありました。それをどうにか言葉にして、誰かに伝えたいとずっと思っていたのですが、なかなか上手にいきません。それは上手にやろうとすると、ただの言葉遊びみたいになってしまうのです。だからわたしはそれを今まで言葉にすることをしませんでした。嘘になってしまうくらいなら、やらないほうがずっとずっといいと思えたからです。その気持ちはいまでも変わりません。
ただ、いまわたしの周りでいろんなことが起きて、これからはもう、こうやってゆっくり時間をかけて何かを考えたりすることができないんじゃないかと、わたしは思うのです。これから私が生きていかなくてはいけない世界は、私の言いたいことがきちんとした形になるまでじっと時間をかけて待ってくれるような、そんな親切な世界ではないんじゃないかと思うのです。そうではなくて、誰かの言ってほしいことや、やってほしいことをできる限り精いっぱい真似していかないといけないような、そんな世界だと思うのです。だからわたしはいまのうちに、できる限りいまの自分をここに書きだしておいて、わたしがわたしでなくなってしまっても、わたしが何かとんでもないことに巻き込まれて死んでしまったりしても、わたしのいま持っているこのこころに戻って来られるようにしておく必要があると思うのです。ちょうどゲームのセーブポイントみたいに。≫
そこまで一息に書いてしまうと、唯子はルーズリーフを裏返しにして机の左手側によけると、2枚目に取り換える。
≪もちろん、これは本物の現実の世界で、ゲームではないから、時間を戻してこのいま手紙を書いているこの時間<平成12年の8月22日の午前0時12分>に戻ってくることはできません。いちど過ぎてしまった時間はけっして戻って来たりはしません。
ただ、わたしは思うのです。わたしがわたしでなくなってしまった世界に、例えばわたしが死んでしまった世界には、わたしはどこに居るのでしょうか。わたしが居なくなった世界には、もちろんわたしはいません。だって死んだら人は、ミイラにでもならない限り何も残らないものになってしまうからです。
でも、本当はそうじゃないんじゃないかと、わたしは思うのです。それがわたしのずっと感じてきた、うまく言えないことのポイントなのです。同時にそれは、今書いているこの手紙の宛て先の手掛かりでもあります。
わたしは思うのですが、わたしのいない世界には、<わたしの不在が存在>しているのではないでしょうか?わたしとちょうど正反対の存在が世界に生まれたから、ちょうどその影であるわたしが世界からいなくなったように感じているだけなのではないでしょうか?うまくいえないけれど、わたしはずっとそれを感じながらいままで生きてきました。
この手紙を書くことで、わたしの感じている世界のあり方を記録しておきたいのです。わたしの書いた手紙が存在しない空間をたどってどこかここではない場所に届けたいと思うのです。いも虫が蝶に姿を変えて存在する世界を変化させるように、この手紙もきっと形を変えてどこかにたどり着くはずです。わたしはそれを信じて疑いません。≫
そこまで書いて唯子は、ルーズリーフを次のものに取り代えるため二枚目を左わきに除けようとして、一枚目の紙がそこに無いことに気づく。唯子は紙を探して机の下を覗きこむけれど、見つからない。机の上の筆記用具や参考書を動かしてみても、紙はどこにもない。
唯子は何かがおかしいと感じる。まるで他人の夢の中に突然、放り込まれてしまったような気分になる。誰かの視線を感じる。
唯子は立ち上がって窓へ向かうと、カーテンを開けて深夜の空を見上げてみる。すると、空中には赤い月が浮かんでいる。
まるで血液を皿に溜めたような、くっきりとした赤だ。
唯子は、その手紙がもう、自分の側の世界には無いことに気づく。