バン・バン・バレンタイン
「チョコで一番難しいのが、湯せんをするところね」と、お母さんは言った。
「刻んだチョコレートを溶かすんだけど、ここは必ず50℃と55℃の間じゃないといけないの。
温度がずれちゃうと、風味が飛んじゃうし、少しでも水が入ったりしたら、あとでムラになったりするわけ」
ふーむ、とキミちゃんは眉間にしわを寄せてから、「まるで恋みたいね」と言った。
お母さんは水の入ったボウルを二重にして、チョコレートに刺した温度計がちょうど31℃をキープしたままかき混ぜるようにキミちゃんに指示する。
「これは、テンパリングっていうのよ。これをやらないと、チョコがなめらかにならないの」
ふーむう、とキミちゃんは腕を組んで、もういちどチョコを睨んでから、「恋はテンパリング」と思ったけど、それは別に言わなかった。
キミちゃんはチョコレートを男の子に渡すのが初めてだったけれど、それは誰にも手伝ってもらわないことに決めた。
クローゼットの中から一番かわいいポシェットを引っ張り出してきてチョコを大切にしまい、持っている中でいちばん大きなリボンでポニーテールを結んだ。
お母さんの口紅でお化粧もしてみたけれど、勝手に使っているのがばれて顔を洗わされてしまった。
キミちゃんは最近やっと乗れるようになったピンクの自転車にまたがって、ゆりねり公園へ向かう。
ゆりねり公園とはみんなが勝手にそう呼んでいる学校の近くの新ヶ丘第二公園のことなのだけれど、そこでゆりねりという名前のお化けがでるといううわさがあって、
そういう名前になったのだ。ゆりねり公園はお化けが出る代わりに、学校のひとが放課後に遊んでいたりすることがほとんどない。
だからバレンタインの待ち合わせにはそこが一番いい。ヒチタくんは木曜日にはスイミングがないから、そこで今日待ち合わせになっている。
自転車に乗りながらも、キミちゃんは自分が可愛く自転車に乗れているかどうかが気になる。
気になればなるほどペダルをこぐ為に上下する自分の膝がすごくみじめな物のように思えてくる。もうちょっと素敵な膝だったらよかったのにとキミちゃんは思う。
たとえばPerfumeのかしゆかみたいに。
ゆりねり公園の砂場の真ん中でヒチタ君は仁王立ちしてキミちゃんを待っていた。ゆりねり公園には砂場しかないからほかに待ち方がわからないというのがヒチタ君の結論だった。
ヒチタ君は鼻をかんだティッシュでポッケがパンパンになったシャカシャカのウィンドブレイカーに両手を突っ込んでいる。
キミちゃんはピンクの自転車で勢いよく公園に乗り上げると、砂場のへりに自転車をスタンドで立てた。
「待った?」とキミちゃんは尋ねる。
「待ってない」と、ヒチタ君は意味も無く大人の嘘をついた。「何のよう?」と言って何度か足元の砂を蹴ったけれど、おそらくは恥ずかしさで唇の端が上がっている。
「今日は何の日か知ってる?」とキミちゃんも負けずに間合いをとる。
「しらん」とヒチタ君は言う。
「しらんの」
「しらん」とヒチタ君は言う。「バレンタインしか、しらん」
ヒチタ君は女の子からチョコレートを貰ったのは初めてだったから、それをひとつも食べる気持ちにはなれなかった。添えられた手紙を5回くらい読んでから、
チョコをコクヨ学習机の引き出しの一番奥にしまった。それから部屋の床をだし巻き卵みたいにころころ転がって、ホワイトデーのことについて考える。
「一ヶ月かあ」とヒチタ君は声に出してみる。
ヒチタ君にとって、一ヵ月後というのは、木星くらい遠い距離にあるような気がした。
作品名:バン・バン・バレンタイン 作家名:追試