母の微笑
社会人になって数か月、得られるものが増えた代わりに、いくつかのものを失った。泰明は、生卵を二つフライパンに落としながら考える。例えばそう、この目玉焼き。
大学にいた頃は、綾にも泰明にも平等に時間があった。一緒に食事を作り、別々の学校に出かけ、帰宅すると向かい合ってテレビを見て、笑いながら発泡酒を二缶空けた。夜は別々に眠ったり、ときには一緒に眠ったりした。
そういう当たり前の日々が、就職し働き出してから、あっという間に消えてしまった。綾と二人で暮らしていくために働き始めたのに、そのおかげで、綾となかなか会えなくなってしまっている。本末転倒だ、と泰明は思った。
何事もなく今日も一人の朝食を終え、皿洗いをしていると、綾が起きだしてきた。昨晩は比較的帰りが早かったので、泰明がいるうちに目が覚めたようだ。
「おはよう、今日は早起きだね」
「でも、少し寝坊しちゃった。朝ごはん、たまには私が作りたかったのに」
綾は疲労で少しやつれていた。それでも、優しく微笑む様子はいつも変わりがない。皿洗いを終え、コーヒーを淹れていると、綾がテーブルで泰明の作った食事を食べ始めた。
「今週末、お義母さんの墓参りに行く?」
綾がストロベリージャムのたっぷり乗ったトーストを食べ終えたころで、きりだした。
「ああ、うん。綾も一緒に来てほしいな」
「わたしも?」
「母さんに、いい加減ちゃんと紹介しないと」
母は泰明が幼い頃に亡くなっていて、毎年五月の命日には墓参りに行っている。今週末が丁度その日であることを、既に綾も知っていた。泰明は覚えている限りで、幼い頃に見た母の様子を、綾に言い聞かせていた。
泰明にとって母は懐かしく、誰よりも愛しかった。
「わたし、お義母さんに、気に入ってもらえるかな」
「気に入ってもらえるさ、きっと」
泰明は確信していた。長い間時間をかけて、綾と付き合っていくうちに、少しずつ自分のもつ母の記憶を刷りこんできた。
綾は、母に似ている。泰明が似せてきたのだ。
母は死んでから遠くへ行ってしまった。泰明が抱いていた母への思いは、母自身に伝わることなく、ずっと子供のころのまま、泰明の心に深く根付いている。
「将来のおれの嫁さんですって、挨拶しよう」
「何言ってるの、もう」
綾はコーヒーの残ったマグカップを手で持て余しながら、照れたように笑った。綾のその優しい笑顔に、初めて出会ったときから、泰明は母を見ていたのだ。
綾とは近い将来、仕事に慣れ、一人前に落ち着いたら、結婚するつもりだ。
綾の名前は、母と全く漢字も含めて同名だった。
泰明には運命としか思えなかったが、綾は偶然だといって驚いていた。その話をしたときは、綾も自分も嬉しかった。これで、ついに母が自分のもとへ帰ってくるのだと、泰明は心底で感動していた。
「愛してるよ、綾」
綾の美しい微笑を引き出させようと、泰明は更に言葉を重ねた。