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穴を掘る

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 男は穴を掘っていた。
 シャベルを持った腕は重く軋み、浮いた血管の注射跡からは、奇妙な生物がわきだし、這っていた。しかし、男にはすでにどうでもよく、ただひたすらに地面の土の塊をかきわける。
 その行為は、男にとって唯一の救いだった。

 数日前、男はある女を殺した。
 髪が長く、いつも白い服を着た、何の変哲もないただの女だったが、女は紛れもなく天使だった。
 迎えが来た、と男は思った。いずれこいつが自分をあの世に連れて行ってくれる、間違いなかった。だから傍に置いた。
 しかし、あるときふとしたきっかけで腕が伸び、殴り、首を絞め、女を殺してしまった。女は何も言わなかったが、最期に喉を引きつらせ、「ひくっ」という声をあげて死んでいった。

 シャベルの先が不意に固いものにぶつかり、男の身体に響いた。
 一瞬動きが止まり、背中を丸めて大きく咳き込む。シャベルを手放すと、よろめきながら膝に手をついて、そのまま吐いた。様々な嫌悪感が胃液と共にこみあげてきて、地面にぼたぼたと垂れていった。
 手足の先がじんじんと痺れている。まだ腹の中に残った黒い塊は消えない。
 最後に、男の頬から一筋の涙が伝い、地面を汚していった。


「おれはいつになったら死ねるんだ」

 ある日、男は自分の部屋にいて、畳の床に寝転がって天井を見つめていた。
 あっという間に木目がゆらゆらと動き、自分に対してにやついた笑みを浮かべながら襲ってくる。男は動くことができなかった。
 そのままこの顔に押しつぶされ、畳の染みになって消えてしまうような気がした。体の先から順番に細長い杭を打たれ、痛い。

「そのときがくれば、きっとわかる」

 女は静かにそう言った。
 男は凝り固まっていた眼球を動かし、女の方に視線をやる。窓辺の隅で正座をして静止しており、わずかに自分から外れた一点を見つめていた。
 女は普段から喋らず、会話をすることもなかった。笑っている姿も、男は見たことがない。
 普通の男女でないからして、恋人という関係でもない。
 そもそも、死にかけている人間と、それを見届ける天使という関係だ、と男は自覚していた。
 ただ、男が狂った日には、激情の赴くままに怒鳴り、暴力をふるい、セックスをした。
 女はいかなるときも、何も言わなかった。
 夜になると、男は言うことをきかない身体を抱えて、肩を恐ろしく震わせ泣いた。
 近くで同じように女の声がしたが、男には聞こえなかった。


 地面に空いた穴は、男の身体を削りながら、次第に深くなっていった。疲労で息が上がり、湿った土の上に尻もちをついた。呼吸の数が減っていく。
 その代わりに涙を零し、悲鳴と嗚咽を上げ、男はむせび泣いた。時間がない。
 地面についた手のひらには、あのときの手紙の一片が握られていた。


 女を殺してから数日経って、男は部屋のあら探しを始めた。自分のものでも、死んだ女のものでも、単純に金になる物が欲しかった。
 たんすを開けると、中にはいつの間にか女の私物が増えていた。男は一瞬うろたえた。中のものを全て引っぱり出して、とうとう見つけたのは、ただの紙切れ一枚だった。
 そこには女の自分への言葉が綴られていた。
 男はすうっと背中から冷たい風が通り抜けるのを感じた。
 視界が急に色を変え鮮やかになり、頭のもやが消えた。現実が鋭く自分に突きつけられる。
 そして、あの女の顔だけが、優しく浮かんだ。

「そのときがくれば、きっとわかる」


 日は既に沈みかけている。視界が歪み、黒く塗りつぶされていく。前が見えない。足の骨が折れ、膝をついたまま、ひたすらに目の前の土を手でかき崩した。
 状況は切迫していた。男はあの女を掘り返して、全てを取り戻すつもりだった。そして、天に召されるのだ。

 あるとき、指の先に何かに当たったわけでもないのに、男には手ごたえがした。いる、この先にいる。必死の思いで手を伸ばした。

「おかえり」

 全ての記憶が、霧散していった。


作品名:穴を掘る 作家名:九島 礼