壷の中の最愛
息子が生まれた。
思えば人の縁とは不思議なものだった。
妻とはただ一度、交渉を持っただけだった。その一度だけで、妻は務めを果たした。
男がいい。そう妻に言った。妻は、それさえも叶えてくれた。
理想の妻だった。今でもそう思う。
待ち侘びた瞬間を迎えた時、私の感じた幸福は如何程のものだっただろうか。
落ち着いた頃、病室で改めて対面した私の息子。
私は、その産着をめくった。
立ち会った時にも見た。男の印があった。あれは夢ではなかったのだ、息子は確かに男だった。
『ああ、立派なものがついているな』
『そう、元気な男の子ですよ。名前は、どうしましょうか』
かねてより決めていた名があったが、私はこの日まで妻には黙っていた。
世間一般において、それは決して褒められる行為ではなかったが、私にとって大事なことだった。
それは密かに、妻の体に訪れた変化を知った日から、私が掛けて来た願いだった。
妻は、良い名前ですからそうしましょうと、微笑んだだけだった。
やはり、優しい女だった。彼女が妻でよかったと、心から感じ、感謝をした。
私と妻と息子。
三人で、幸せだった。
日に日に重くなる息子が、私と妻を嬉しがらせ、時に悩ませた。
走れるようになった息子が駆ける。私が追いかける。妻が笑っている。
端から見れば何気ない日常。それが何処までも尊く美しく、私の目を通して心に映り、細かに深く刻まれていく。
ああ、似ている。
息子はよく似ている。
私は、やり直せると思った。
喪ってしまったものを、ようやく取り戻した。
私は弟が大好きだった。
可愛い弟。一つ違いだったが、甘えるのが上手くて、いつも私の後を追いかけてきた。
私はそれが嬉しくて仕方なかった。
父と母は家を空けがちだった。私達は、いつも一緒だった。一緒でなくては心細かった。
私が小学校も卒業まで一年になっても、私達は同じ部屋の、同じベッドの中で夜を過ごした。
中学に上がっても、変わらなかった。弟も追いかけるようにして中学へと上がっても、やはり。
ようやく、父と母がそれに気づいた。
愛していた。今なら、その言葉を当てはめることが出来る。
十五年が過ぎて、私は見合いで今の妻と結ばれた。
両親のもとを離れて得た家の、書斎のデスクには、一つの位牌と小さな骨壷が置かれている。
本当は仏壇に置くべきなのかも知れない。だが、私にはこれだけあれば何も要らなかった。
弟。私の愛しい人は、今はもういない。
秘密の関係が両親に知られた次の日、私達は部屋を分かつことを強いられた。出入りも禁じられた。
そして二人、別々に、両親の言う然るべき場所に連れまわされる日々が始まった。
カウンセリングも、精神科も、この頃に私達は体験した。
弟が死んだのは、そんな日々が半年も経った頃だった。事故だった。
――どうしてこんなことになったのだろう。愛らしい微笑みを湛えた遺影を前に、ようやく涙を流せた頃、小さかった弟は、更に小さな壷に姿を変えていた。
息子は、弟の生まれ変わりだった。
この腕に抱いた時から、いや、一目見た時から、直感した。
私は信じてもいない神にも仏にも、どれほど感謝したか知れない。
今度こそ、私は愛する人を喪いはしない。
そして、息子が十四歳の誕生日を迎えた。
ようやくやり直せる年齢になってくれた。
弟が越えることの出来なかった十四歳を、この子は越えてくれた。
その日、私は悦びで満たされた。