篠原 喧嘩8
「本日の予定が変更になったので。」
「どこ? 」
「アカデミーです。」
あーあー、せっかく上手く逃げたのに、どうやら、直接、橘のほうへ抗議が行ったらしい。そして、逃げないように、細野が連行しに来たのだ、という一連の行動が理解できて、篠原は、がっくりと肩を落とした。
「行きたくない。」
「すいません、とりあえず、顔を出してください。もし、具合が悪いなら、板橋先生のところへ連れて行くように、とのことなんで・・・・・」
「用意周到だね? 細野。」
すいません、と、細野が頭を下げる。ここで、嫌がっても細野に八つ当たりしているだけだとわかってはいるが、無性に腹が立つ。
「ひとりで出向くから、細野は通常業務に戻って。」
「でも・・・」
「心配しなくても、必ず、向こうに顔は出す。午後から確認の電話をいれてくれ。」
なんていうか、ここのところ、万事がこんな調子だ。なんていうか、手を差し出されると、無性に腹が立つのだ。だから、と、いって、ひとりになると、それはそれで、どうも気分が沈む。自分でも、このムシャクシャした気分の理由がわからない。
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細野は無理に返した。これで行かないわけには行かない。だが、直行する気にもなれなくて、アカデミーの別部門へと足を向けた。知り合いがいない部門のほうへ散歩するつもりで歩いていたら、目ざとく、知り合いに見つかった。
「よしちゃん、どこへ行くつもり? そっちは、バイオだよ。」
前川のゼミ生だ。たまに、篠原は迷子になるので、行き先を間違ったのかと心配して声をかけてくれたのだ。で、まあ、篠原も目的があるわけではないので、返答に困る。
「なんかイヤなことでもあった? 」
「え? 」
「だって、ものすごい不機嫌な顔してたぜ。気分転換したいんなら、バイオの実験温室がお奨めだけど? 」
「うん。」
「温室までは案内する。そこから、戻る時は、物理ラボを目指しておいで。わかった? 」
「・・・うん・・・・」
アカデミーにいると、自分は、ただの聴講生で、ゼミ生たちよりも年下だから、みな、こんな調子で話してくれる。ある意味、年相応の対応をされているのだと思う。ここにいると、自分は、まだ子供なのだと思うのだが、職場では、そうもいかない。そのギャップがイヤだと思うこともある。
「喧嘩でもした? 」
ぼんやりと考え事をしながら歩いていたら、笑いながら、そうからかわれた。
「・・うん・・・」
「いろいろあるさ。」
「・・うん・・・」
「教授が、べたべたしてんのも、今は面倒だったりとか? 」
「・・うん・・・」
「うーん、なんかさ。よしちゃんだけは、孫みたいで心配ならしいよ。大怪我して長いこと入院してたんだろ? それで心配するんだと思う。・・いや、確かに過保護だとは思うんだけどさ。ああやって、甘やかしてくれる人がいるのはいいことなんだぜ? 」
「え? 」
ゼミ生の言葉に、俯いていた顔を上げた。本来なら、ああやって、ひとりだけ贔屓されていることに、ゼミ生たちが不快を感じるものだとばかり思っていたからだ。
「普通さ、いろいろと思惑とかあるじゃないか? 成績のいいゼミ生を優遇したり、資金力のある学生を抱き込んだり、とかさ。大人社会の当たり前みたいなのは、どこでもあるんだ。でも、教授は、よしちゃんには、そんなのじゃない本気の心配してるだろ? だから、あんまり邪険にしてやっちゃダメだよ。たまには、教授の話にも付き合ってやってくれ。昨日から、なんか、教授の機嫌が悪いんだけど、たぶんね、あれ、よしちゃんが昨日、逃げたからだと思うんで。」
俺らに被害が出る前に、どうにかしてくれ、と、冗談交じりにゼミ生は、そう言って、目の前に見え始めた温室を教えてくれた。
「絶対に、今日は顔を出してくれ。終わってから、みんなでメシでも食おうよ。おごるからさ。」
・・・・本気だから面倒なんだけどな・・・・・
元来た道を戻っていくゼミ生を見送って、ふう、と、息を吐き出した。わかっているから面倒でもある。だが、これでは顔出ししないわけにもいかないだろう。温室を散歩したら戻ろうと、とりあえず、温室に入る道を進んだ。