篠原 喧嘩6
「まあ、おいおいに聞いてはみますが、期待はしないでください。」
「ええ、わかってます。私が聞いても教えてくれなさそうなんです。・・・・でも、うちの子は、雪乃さんがいないと体調を崩すことが多いから・・・・・」
確かに、そうなのだ。精神安定剤の効果があるらしく、女房と毎日、顔をつき合わせている限り、若旦那は元気だ。元から低空飛行な体調ではあっても、機嫌良く働いている。
「はあ、それはそうですね。」
だから、その心配は誰もがする。一週間、女房が不在になるだけで、熱を出したりする軟弱極まりない若旦那だ。今回の喧嘩が長引けば、確実に、また風邪でもひくことだろう。
よろしく、お願いします、と、言われて、橘も、これは動くべきかな、と、内心で思った。あまり体調を崩すような真似はさせたくないのは、関係者一同の一致した見解だ。
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昼食を食べる段で、細野に断りを入れて、ふたりで外へ出た。官庁街である、この地域には、食事するところもいろいろとある。たまには、外で、と、若旦那に命じたら、大人しくついてきた。
「ケーキ食うか? 」
「・・・また・・・・・」
「ん? 」
食事は、日替わりのランチにしたが、それだけでは、口を開かないだろうと、メニューに載っている甘いものを勧めたら、げんなりとした顔で、若旦那は肩を竦めた。
「不機嫌は、別に甘いもので治るけではないんですけどね。」
「ああ? 」
「毎日毎日、誰かが甘いものを差し入れてくれるんです。もう、飽きました。」
若旦那が不機嫌という状況に、関係者が懐柔するべく、毎日、いろいろと差し入れをしているらしい。不機嫌で、痛い指摘を受けたくないのは、誰だって同じだ。
「ケーキはいりません。」
「そうか。・・・・とりあえず食え。」
「はいはい。」
運ばれてきたランチに口をつけて、その様子を橘は観察する。具合が悪くなると、たちまち食事量が落ちる。だから、それを警戒する。
「おまえな、あんまり、そのぶすくれた面ばかりしていると、みんなの顔色が悪くなるから、やめろよ。」
「普通ですよ、これで。ちゃんと笑ってるし。」
いや、瞳が笑ってない。これでもかというくらいに、冷たい目だから、慣れていないと、かなり衝撃を受ける。橘は、慣れているし、ああ、怒ってるんだな、と、わかるぐらいで、驚くこともないのだが。なんせ、橘だって、かれこれ七年以上は付きあっているのだ。表情や雰囲気は読み取ることができる。
「で、雪乃と何をもめてんだよ? プライベートを仕事に持ち込むっていうのは、どうかと思う。」
「別に大したことではないんです。なかなか、こう、納得がいかないっていうか・・・・・僕は、雪乃の子供か? っていう疑問みたいなものが・・・・・」
「あ? 今更、何を言ってんだか・・・・あの女はな、おまえの母親で恋人で女房で友人で、とりあえず、全部を一人で背負ってるんだよ。今まで、それを疑問に思わないおまえに問題がある。」
「そうでしたか? 」
「あのなぁー若旦那。あんだけの執着は、普通、女房や恋人では無理。俺にだって、それぐらいはわかるっていうんだよ。」
昔から、とにもかくにも、雪乃は一途だった。時には保護者のようだったし、時には恋人のようだった。だからこそ、この執着には敵わないと、橘は、雪乃を諦めたのだ。
「それで、やめたんですか? 」
「おう。」
もちろん、その事実を、若旦那は知っている。
「今なら、どうにかなるかもしれませんよ? 」
冗談なんだか、本気なんだか、非常にわかりにくいことを言うので、若旦那も性質が悪くなってきた。
「バカ、あの女が、この程度で崩れるもんか。」
「ははははは・・・・そうでしょうね。」
冗談ではあるらしい。そういう確固たる繋がりが切れていないのは喜ばしいことだ。
「だから、吐けっっ。」
「黙秘です。」
「てめぇー、俺が、そんなもので黙ると思うか? 」
「ははは・・・おもいませんね。でも、タイムアップです。ほら、細野が迎えに。」
指し示す手の先には、店へと向かってくる細野の姿があった。午後から、アカデミーに出ることは聞いていた。さっと立ち上がると、すたすたと若旦那も出て行く。ちっっ、失敗した、と、橘が舌打ちした。