篠原 喧嘩4
「どうしましょうか? 」
細野だって、どうしたらいいのかなんて、わからない。橘だって、独り者だから、夫婦喧嘩の仲裁なんてわかるはずがない。
「こういう場合は、放置したほうがいいと思いますね、橘さん。」
冷静な言葉を吐いている江河は、すぱーっとタバコの煙を吐き出している。同じく独身者ではあるが、経験豊富な人間だ。
「どうせ、若旦那、実家へ帰ったんだろ? なら、生活保護は受けられるから、いいんじゃないか? ちょっと距離置いて、冷静になれば、どっちかが折れるだろうさ。ていうかだ。あの雪乃が、折れないはずがないだろっっ。」
若旦那にメロメロの奥様は、おそらく、数日で頭が冷えて、すぐに、実家へ迎えに行くに違いないと予測する西野も、江河同様のご意見である。
「しかし、普通は、嫁が帰るもんなんだけどなあ。・・・・・若旦那が帰るってところが、篠原家らしいっていうかなぁーあはははははは。」
けっして、カカア天下というわけではないが、転ばぬ先の杖とばかりに、奥方が、先に何から何まで取り仕切る。若旦那は、それに気づいていても、「よきに計らえ」という態度で流されているわけで、流されたくないとなれば、奥方の影響力の及ばないところへ逃げるのが、手っ取り早い。その場所が、若旦那の両親のところということになる。さすがに、そこでは、奥方も無理矢理連れ戻したりはできない。
「確かになあ。若旦那が具合が悪くならないっていうなら、俺もいいさ。」
もちろん、橘だって、あまり関わりあいたくはない。下手なことをすれば、確実に、雪乃に噛みつかれるのは、橘だからだ。
しかし、そう上手くいかないのが、世の中の常というもので、夕刻の雑談タイムに乱入してきたのが、設計課の小田と曹だ。まず、若旦那の結婚相手の質問から始まって、夫婦喧嘩の原因まで、滔々と捲くし立てられるに至って、「じゃかましいっっ。」 と、橘の一喝が入る。
「あれだって、一応は成人男子なんだよっっ。結婚したぐらいで、騒がれるほうがおかしいだろうがっっ。」
「いや、だからさ、橘。あの若旦那が見初めた相手っていうのが、気になるってんだ。」
・・・・・いや、見初めてないから・・・・・・
橘以下、その部屋の人間は内心で全否定した。見初めたわけではない。生まれた時から、若紫よろしく育てられたが正解だ。大切に大切に育てられて、成長したから収穫されたに過ぎない。
「若旦那が見初めたというよりは、相手が見初めて求婚したが正解だろうなあ。」
丁寧に述べるなら、そういうことになるだろう。ただし、期間が異常に長いが。
「年上か? 」
「ああ、年上だ。」
「それで、若旦那が我侭でも言って夫婦喧嘩ってか? 」
「いや、その辺りはよくわからないな。強引さで言えば、女房のほうが千倍くらい強引だ。」
「・・・・あんた、それ、雪乃に聞かれたら、確実に殺されるぞ。」
「口が悪いから苛められるって自覚したほうがいいぜ、橘さん。」
橘は、この口の悪さが曲者で、誰に対してもざっくりと事実を吐く。当人は正直に話しているので悪気はないのだが、かなりキツイことも、そのまんまだから、これがトラブルの素となったりする。雪乃辺りになると、言いたい放題だから、正直すぎて、後で手痛い報復攻撃を食らうのも橘だ。
「でもさ、篠原って、余程のことがない限り怒らないだろ? 大丈夫なのか? 」
小田の言葉に、あーなーと、全員が頷く。大変温厚なので、滅多なことでは怒りを感じない若旦那である。周囲に当たり散らすほどの機嫌の悪さからすれば、相当、激しい喧嘩であるだろう。
「あいつが、実家に帰ったから、具合は悪くならないさ。」
「いや、そうでなくて、夫婦仲のほうだ。離婚とかさ。」
実家に帰るほどの喧嘩なら、そんな心配があるのではないかと、曹は心配したが、橘たちは、頬を歪めただけだ。
「はんっっ、そんなもん。」
「絶対にないって、神賭けて誓うね。」
「小田さん、あの若旦那を夫に選んだ女性は、タダ者じゃないので。」
たかだか、夫婦喧嘩ぐらいで、雪乃が別れるはずがない。むしろ、若旦那が、そんなことを言ったら、拉致監禁でもやらかしてくれるだろう。それぐらい、メロメロだ。
「そう考えると、雪乃って、粘着気質なんだよな?」
ふと、さっぱりした男前の性格な雪乃が、こと、若旦那に関してだけは、執着が凄いことに、西野は気づいた。
「若旦那限定ってことならな。」
西野の言葉に、江河が苦笑する。あなたしか見えないを、地で行くほどだ。
「なあ、若旦那の嫁さんって、藤堂さんとこの小林さんなんだろ? あの人が粘着質って・・・・それはないだろう。」
「小田さん、あんたは甘い。雪乃が、どのくらい若旦那にだけ甘いのか、わかってないな。」
「そのうち、わかるさ。まあ、明日の打ち合わせには、模範解答を頼みます。」
「いやだから、そのことで、相談に来たっていうのが、本題なんだ。・・・・頼むから、折り合い部分の正直なところを教えてくれ。」
お互い、無茶ばかり言い合っても仕方がない。たいていは、どちらもが、この範囲は許容しようという部分がある。それを教えないで帰ってしまわれたから、小田も曹も困ったらしい。なんせ、宿題を出したのは『科局の秘蔵っ子』という有難いニックネームを持った青年である。宿題の模範解答は、高度なものであるはずだ。それを把握しているだろう男は、ここにいる別名『物理の申し子』こと江河だけだ。
「貸し三でいいですか? 小田さん。」
「なんでもいい。むしろ、それは、曹につけとけ。」
「え? 」
「俺は、今日、若旦那にプリン食べさせて、先に貸し一くらいは支払ったからな。」
「あーそういうことですか。わかりましたよ。貸し三は引き受けるから、課題の折り合いを考えてくれ、江河。」
打ち合わせがスムーズに進行するほうが先だとばかりに、曹も、その条件に頷いた。