おれはきみを愛しただろうか
桜の花咲く庭だった。
はなびらが、雪のように降る庭だった。
そう広くもないけれど、皆が大切にしている庭だった。
一緒に遊んだ庭だった。
歩き慣れた道は、それでも細かいところが変わっていて、来間は時折目を細めた。
「…まだ、竜胆が咲いてる…」
少し俯くと伸び気味の髪が揺れて、か細いうなじがのぞく。多賀は自分が巻いていたカシミアのマフラーを、その薄い肩にかけてやる。
「……よく、毟って…怒られたっけ…」
ちょうど子供の視界に入る竜胆を、小さかった来間は通りすがりによく毟っては散らした。けれど怒られるのは、いつも多賀の役割だった。
───どうして止めないの、見ているだけも、同じくらい悪いことよ。
母の声がふとよみがえったような気がして、多賀は苦笑する。
「あ、…すずめ。……」
冬に備えてふくふくし始めた小さな鳥に、来間は優しい微笑を向けた。
気がそれた瞬間にふらついた来間の枝のような身体を、多賀がしっかりと抱き留める。来間は一旦足を止めると、無表情な多賀を見上げて
「多賀ぁ」
と、どこか甘えた声を出した。
「…なあ、……お前、どしたの、急に…」
安い小さなアパートだった。
管理人の老夫婦と、東南アジアからの留学生と、共に母子家庭だった多賀と来間───
アパートの前には緑が広がって、古い桜の木が一本植わっていた。
春になると、枝一杯に淡いピンクの花が咲いた。
はらはらとはなびらが散る中で、多賀と来間はまだ見た事が無い雪を思って遊んだ。
「…いっつも、俺の事、…外に出したがらないのに」
踏み外したのはいつだっただろう。
身を切るような秋風に、多賀は現実に引き戻される。
「…竜胆が、咲いてる…
なあ、…多賀」
気付いた時には、二人揃って堕ちていた。
二人、揃っていたのは、良かったのか悪かったのか。
多賀は黒い服が似合うな、などと、来間は事あるごとに潤んだ目で言った。
ピルケースに入れた、小さな小さな甘い薬が、来間の体を蝕み、一方で多賀の地位を支えている。
最初に堕ちたのは自分一人だ、と多賀は知っている。
けれど、一緒だと、思いたいのだ。
「多賀…」
安心しきった表情で自分に凭れかかる。その幸福をただ失いたくない一心で。
「…ああ」
低い声で囁くように答えてやると、痩せて骨と皮ばかりになった指を、多賀の手に絡ませる。
ぞっとするほど冷たい震える指先を、多賀は静かに握り返す。
「そこを」
空き地だったはずの新築マンションを指差して、来間は不意に聡い目をした。
「曲がって、すぐ…な」
安い小さなアパートは、変わらず古ぼけて建っていた。桜の木も、その枝を冷たい風に震わせている。
「……多賀…」
きつく握った手が、痛い、と言う。
「…おれ、…外で、待ってる…?」
「駄目だ」
いつも一緒だった。
「…駄目だ」
なにをするのも。
階段は昔と同じようにぎいぎいと螺子がきしんだ。
一段、また一段。多賀と来間はゆっくり登る。
「母さんが…帰って来ると、軋んで鳴るから、」
「…隠れんぼ、したな」
二階の三号室が多賀、五号室が来間の家だった。
白く透けるような頬が、冷たい空気にほんのり赤く染まる。
引き返すなら、今だ。
多賀は知っている。
今しか、もうない。
けれど、古い鍵がかかった五号室のドアは、多賀が何度か蹴ると壊れて開いた。靴のまま三和土を上がると、畳がぎしりと鳴る。
日中の日差しのぬくもりが残る窓辺に、来間は懐かしそうに座り込んだ。
「…こっからさ、…桜が見えてさ」
多賀は来間の横に腰を下ろし、スーツの胸ポケットからピルケースを取り出した。白くてつやつやした小さな錠剤は、まるで孵化する魚卵のように見える。
「……咲くかなぁ…」
今迄、その小さな粒を口にした事は、ほんの二三回しかない。多賀は無表情なまま、ざらりと、手の平にそれを広げた。
来間が多賀の肩に頭をもたせかけて、薄い瞼を閉じる。
「…咲いたら、見に来ようなぁ…」
ああ、と短く返事をしてやると、来間は安心した様子で微笑した。
「帰りに、竜胆の花を、貰って行けばいい」
「…ん? …うん」
来間が多賀の手の平から、白い粒をいくつか、口に運ぶ。噛まずに飲み下して、
「帰りも一緒だよな」
唐突に硬い声で囁いた。
多賀は答えずに、その氷のような指先を握る。
「……一緒だよな…」
「───…ああ」
多賀の手の平から、来間の唇へ、薬が何粒も渡る。来間は震える指で、
「……修ちゃん…」
多賀の薄い唇に触れた。
「修ちゃん」
多賀は何個もまとめて、薬を飲み込む。
「修、ちゃん…」
ずる、と来間の頭が多賀の肩からずり落ちて、多賀はその折れそうに細い肩を抱き留める。
海斗、と多賀はその耳元で囁いて、暗闇に目を閉じた。
桜の花咲く庭だった。
一緒に遊んだ庭だった。
作品名:おれはきみを愛しただろうか 作家名:鈴木さら