篠原 喧嘩１
低血圧な若旦那が、ひょこひょこと職場に出勤してきたのを、目にして橘は呻いた。技術職なので、スーツにネクタイ着用とかいう堅苦しい規則はないが、概ね、そういう格好で、ここの人間は出勤してくる。汚れ仕事の場合は、作業着だし、会議や研修に出向くことも多いからだ。もちろん、橘もスーツだ。仕事中は、上着はロッカーへ叩きこんでいるが、とりあえず、そういう格好でいる。制服もあることはあるが、あまり着ていることはない。
で、件の若旦那だって、普段は、スーツにネクタイだ。前夜に、奥方が、ちゃんと用意しておくものを、順番に着てくる。そうでないと、ファッションセンスを、十億光年くらい後方に忘れてきた感のある若旦那は、とんでもないことになるからだ。まさに、今朝は、それだった。スニーカーは許そう。だが、ジーパンに洗いざらしたワークシャツで、寝癖がついているとしか思えない髪の毛という姿は、どこをどうとっても学生の雰囲気でしかない。ＩＤカードがなかったら、間違いなく玄関で警備員に止められている。
「・・・はあ・・・・」
また、この若旦那、朝がからっきしなのだ。たぶん、まだ意識が覚醒していないので、あやふやな受け答えしかできない。
「雪乃は出張か？ 」
ここまで、酷い格好なら、奥方が急な出張で、準備ができなかったのかもしれない。
「・・・さあ？・・・・」
「朝いなかったのか？ 」
「・・・・会いませんでした・・・・・うーーー細野、コーヒー。」
じゃあ、やっぱり、出張なのだろう。へろへろと自分の机に座り、端末の電源を入れているのは、いつもの光景だ。補佐役の細野が、コーヒーメーカーで入れられたコーヒーに湯を増して運んでくる。
「今日は、午後から設計課との打ち合わせがあります。」
「・・・・うん・・・・」
「たぶん、小田さんのことだから、昼を一緒に、っておっしゃるでしょう。」
「・・・・はい・・・・」
「それまでに、作業着に着替えてください。まだ、あちらのほうがマシだと思います。」
「・・・はい・・・」
「それから、篠さん、僕、雪乃さんから出張の予定なんて、お聞きしていませんが、急に予定が入ったんですか？ 」
「・・・ううん・・・・してないと思うよ。」
「え？ 」
細野は、若旦那の健康管理も一手に引き受けているので、自宅で一人になる場合は、食事なんかも考えないとならない。なんせ、この若旦那、一人だと手を抜く。一人だから、これで晩御飯と、蜂蜜たっぷりの紅茶で済まそうとするからだ。そういう危険な生き物なので、奥方が出張の場合は、先に連絡が入って、細野か橘が食事を監視することになる。
「寝坊でもしたのか？ 」
「・・・・さあ？・・・・」
ずずっと、薄いコーヒーを啜りつつ、端末でニュースパックのチェックをしている若旦那は、まだ、寝ぼけている。
「モルゲン」
陽気な挨拶と共に、ジョンが入ってくる。いつもなら、挨拶を返しているはずの若旦那は、さらりと無視した。
「なんだよ？ 死にかけなのか？ 若旦那。」
返事がなくても、ジョンは気にしない。トントンと若旦那の肩を軽く叩いて、自分のデスクに座る。朝からメールとスケジュールのチェックをしないと、本日の予定すらわからないからだ。
「まあ、いい。具合が悪そうだったら、医務室にでも放り込めよ、細野。俺は会議に出て来るからな。」
橘のほうは、朝から会議がひとつ入っている。そろそろ、出かけなければならない。寝ぼけているのなら、午後近くになれば、しゃんとするだろうし、具合が悪いのなら、細野が医務室へ叩きこむだろう。
・・・・なんか、機嫌が悪いよな・・・・・・
むすっとしている様子からすれば、機嫌は悪そうだ。また、不愉快なことでもあったのかもしれない。とりあえず、会議が終わって、若旦那が覚醒してから考えようと、橘は資料を片手に部屋を出た。