名前の無い天使
名前を付けようとすれば、付けられたものの、その天使はどんな名前を考えて
も、満足しなかった。
他の天使が毎日を祝福する中、その天使は孤独だった。
自分がなぜ天使なのかも分かっていなかった。
天使は人間には見えない。
普段は雲の上を転々としているが、実体を持たないので、雲がなくても落ちる
事は無い。言わば意識だけの存在である。
しかし天使同士の間では特定の姿が見えるし、個性もある。美しい羽根が天使
の象徴だった。
天使達にするべき事は無く、ただ毎日を祝福していた。
天使達は人間にまるで興味を持っていなかった。
人間と天使には何の接点も無かった。
――パリに有名なオペラ座がある。
天井が高く、ステンドグラスになっていて、日光が様々な角度から入り込み、
歌い手を照らす。言わば天然のスポットライトだ。どんなオペラ歌手もそこで歌
う事を夢見た。
ソフィアもその一人だった。
オペラ歌手は男によくモテた事もあり、ソフィアは男遊びが多かった。
だが、そんな彼女にも心から愛せる男ができた。
男もソフィアを愛しており、やがて二人は結ばれた。
その男の赤ん坊を宿し、彼女は幸福だった。
だが、男はソフィアとその赤ん坊を守る事を放棄し、行方をくらましてしまっ
た。
ソフィアは泣いた。だが男への愛が消える事は無かった。
いつかまた会えると信じていたし、何より、お腹の中には赤ん坊がいる。
彼女は赤ん坊の為を想い、何とか元気を取り戻した。
重たいお腹を抱えながら、彼女は必死にお金を稼いだ。男遊びもせず、赤ん坊
の為に働いた。
だが不運な事に、赤ん坊は死産であった。
ソフィアは絶望した。
心から愛した人だけでなく、その人が残した赤ん坊も守ることができなかった
のだ。
ソフィアは自暴自棄になり、何度も自殺未遂を繰り返した。
それでも死ねなかったのは、あのオペラ座で歌いたいという未練が残っていた
からかもしれない。
それから1年後、オペラ歌手として下火になりかけていたソフィアだったが、
晴れて念願のオペラ座で歌える機会がやって来た。
彼女は歌い終わったら、自殺するつもりだった。
あのオペラ座で歌う事ができれば、もはやこの世に未練など無い。
彼女は、自分の全てを歌に込めると誓った。
舞台は順調に進み、もはや最後の歌を残すのみとなった。
ソフィアの出番がきた。
ソフィアはありったけの想いを込めて、歌った。
――名前の無い天使がいた。
天使は今日も一人で過ごしていた。
天国は相変わらず平和だった。
しかしこの日、天国に前代未聞の出来事が起こった。
「人間の世界から何か聞こえる」
今までこんな事は無かった。天使達は困惑した。泣き出す者もいた。
名前の無い天使は、その音に聴き惚れた。
それが何なのかは理解できなかったが、自分がずっと求めていたものだと確信
した。
その天使は、人間の世界に降りる事を決心した。
天使が人間の世界に降りるには、天使の象徴とも言える羽根を折らねばならな
い。だが、そんな事をする天使は滅多にいなかった。
名前の無い天使は、少しも迷うことなく自分の羽根を折った。
周りの天使は息を飲んで見守った。
天使は空から降りた。オペラ座に向かって真っ直ぐに降りていった。
ソフィアが歌う。
天使が降りてくる。
ソフィアが歌う。
天使が降りてくる。
ソフィアが歌う。
天使が降りてくる。
名前の無い天使は、ソフィアが失った赤ん坊の魂であった。
歌がクライマックスを迎えたちょうどその時、天使とソフィアは一つになった。
ソフィアの声は、より一層大きく美しく響いた。
ステンドグラスから陽が差し込む。
その角度が変わり、観客にはまるで彼女の背中から、光の羽根が生えているよ
うに見えた。
客席では、涙を流さない者はいなかった。
誰もが、生まれてから現在までの全ての瞬間をフラッシュバックした。
ある者は口をあんぐりと開け、ある者は息絶えたかのようにうなだれた。
叫び出す者もいたが、彼女の声がかき消される事は無かった。
誰もが日常を忘れ、その瞬間を祝福しあった。
――そして舞台が終わった。誰もが放心状態で、拍手は一切起こらなかった。
ソフィアはふわりと倒れこんだ。彼女は死んだ。
自分の全てを注ぎ込んだからであろうか。
あるいは、もう生きている必要が無くなったからかもしれない。
名前を持った天使は、天に昇った。
もう2度と降りてくる事は無かった。