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午後の陽射しが窓から柔らかく差し込んでいた。
はっきりしない頭で暫く考えてみて、ああそうだ今日は卒論を提出して、
研究室に戻っていつの間にか寝てしまったんだ…と分かった。
気付けば提出前バタバタしていた研究室内も静かになり、学会を控えている
先輩一人がカタカタとパソコンと向かい合う音が聞こえるだけになっていた。
そして俺は思い出す。
卒論執筆の疲れがたまって、思考能力が低下した脳ミソであの日のことを。
――…
5日前のバレンタインデーの日、俺はどうせ誰からも貰えないなら
作って渡す側に回ろうとヤケを起こした。
締め切り前だというのに張り切ってスーパーに行き、少し恥ずかしい思いをしながら材料を購入した。
そしてめんどくさいことにいわゆる本命チョコを渡す計画を考え付いてしまった。
相手は同じ学科のクラスメイトであり親友であり…おまけに家までマンションの隣同士の奴だ。
中でも一番の問題はそいつが俺と同じ男だということ。
(まあ…いつものノリで渡せば大丈夫だろ)
ふざけて彼氏彼女のような安っぽいやり取りもできる仲だ。
手作りチョコに多少引かれても笑い話になると思っていた。
かくして気合いたっぷりに作り上げたトリュフを我ながら女より器用な手付きで
ラッピングしほぼ徹夜で大学に向かったのだった。
「あれ?」
「圭ならさっき出てったけど」
居る?と聞く前に圭のゼミ生が答えてくれた。
「そっか」
「なんか伝言あるなら伝えとくよ」
「んー…良いや。また後で来る」
わざわざ大学で渡さずとも…と思ったが締め切り前だし研究室に
泊まる可能性もあるから夜食にでもしてと渡してしまいたかった。
(なんかあんまり体調良くなさそうだったけど…笑ってくれるのか…)
修羅場に弱い圭は時々近付くなオーラを出して心の引きこもりになるから注意が必要だ。
ふと廊下の窓をひらひらと動くものが落下しているのを捉えて顔を上げた。
「雪……」
めったに雪が降らない地域なので珍しい、とぼんやり見つめる。
この降り方だと積もるかも知れない。
「何してんの?」
後ろから聞き慣れた声がした。
「あ、いた」
「俺を探してた?」
「うん」
雪ヤバいなー俺原付なんだけど…と圭が窓を見た。つられて俺も目を向ける。
「今さぁ」
「んー」
「女の子からチョコ貰った」
「……マジで?」
反応が遅れた。心臓が速く脈打ち始めて苦しい。
「こ、告白された…とか?」
「いやーなんも言われなかった」
「そっか…でも良いじゃん。俺なんて」
お前に渡そうと張り切って手作りして、今どん底に落とされたって言うのに。
「俺なんて?」
「…誰からも貰えないのにさぁ」
「まだ分かんないじゃん」
うるせー!と笑ってみせたけど本当に笑えてたかどうかは分からない。
「じゃあそろそろ研究室戻ってラストスパートかけますか」
「俺はもう後は軽く修正して提出するだけ」
「……マジ?」
「計画性なさすぎんだよ圭は」
頑張れよと肩に手をかける。もう一方の手には渡せないままの包みをくしゃりと握った。
「悠也」
お互い背を向けたのに、圭が俺を呼んだ。
慌てて包みを前に持ってきて隠す。
「どうかした?」
一瞬間があって、圭が少し拗ねたような声で言った。
「それ、くれないの…?」
ドキリとした。圭がまた距離を縮めようとする。
「これ…これは、俺が女の子から貰った……」
「さっき誰からも貰えないって言った」
「そ、…うだけど…」
背の高い圭の視線がうつむいている俺に注がれているのが分かる。
冗談みたいに渡すつもりが何故こんなことになってしまったのか。
「悠也からのチョコ期待してた」
「なんで…」
「理由なんてないよ」
欲しかったから。それだけ。
俺がぽかんとしていると、手を取って
「貰ってくね。ありがとう」
そう言って踵を返して行ってしまった。
「な……なんなんだ…あいつ」
混乱した頭で考えても答えは出ず、俺は暫くそこに立ち尽くしていた。
窓の外では雪が薄っすらと地面を覆い、世界は白く染まっていた。
End.