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世の中には福も禍もない

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『世の中には福も禍もない』

 昨年の夏、うだるような暑い日が続いた夜のことである。たまたま、ひとけの少ない細い道を歩いていたサオリが後ろから来た車に引かれた。引いた車を運転していたのは、酔っ払い運転していた十八歳の少年だった。生死をさまよったものの、奇跡的に助かった。さらに良かったのは、言葉と脚に少し障害が残っただけですんだことである。だが、サオリはまだ二十だった。

 事故から一年経過した。人は助かってよかったと言ってくれるが、サオリはとてもそんな気持ちになれなかった。前のように自由に喋れないし、きれいに歩けないからだ。歩く姿を鏡に写してみた。滑稽だった。まるでピエロのようだった。おかしいくらいに。悲しかった。事故以来、めったに家を出ようとしなかった。どんなに考えても分からなかった。神はかくも過酷な試練を自分に与えたのか。悪事は何も働かなかったのに、まるで罰のように重い障害を背負わせた。また、何で自分だけがそんな不幸を背負わないといけないのかとも考えた。
 ある時から妄想にとりつかれた。自分の歩く姿や話している姿を見て、みんなあざ笑っていると。そのせいで家から出られなくなった。
あらゆる関係においてそうだが、その関係を築くには時間がかかる。が、壊すのに時間はかからない。恋もまたその例外ではない。恋が厄介なのは、会わずにいたら、恋心も自然と冷えていくということ。それゆえ恋人のゴロウが離れていったのも当然のことだった。しかし、サオリはそんなことにも気づかなかった。

久しぶりに母親と二人で買い物に出た。
街中を歩いていると、ゴロウが、こともあろうに友人ケイと仲良く歩いているのを見つけた。その日の夜、友人ケイを呼び出し、問いつけると「だって、彼はあなたと別れたと言っていたわ」
「私が彼と……」と絶句した。
「そうよ。メールをしても返事を寄越さないし、電話に出ないから、もう自分は嫌われたってと彼が言っていた」
 確かにそうだった。しかし、とても電話やメールする気にはなれなかった。恋人なら、そこのところをちゃんと分かってくれたと思っていた。
「それに、私の方があなたより先に彼のことが好きなった。けれど、彼があなたを選んだから、私は引いただけ。でも恋は自由なはずよ。彼の心があなたから離れたなら、私が彼と付き合っても悪くはないはず。それで、あなたとの関係が終わるなら、残念だけど、仕方がない。私は、あなたより彼を選ぶ。結婚して、彼の子供を産みたいの」
 ケイの毅然とした態度に衝撃を覚え、サオリは何も言えず茫然とするだけだった。
 ケイと別れ後、ずっと考えた。ケイは美人ではないが、明るくてひたむきなところがある。そんなところがゴロウの心を捉えたのかもしれない。
事故に遭う前、ゴロウはサオリに向かって、
「お前は美人だけど、疲れるところがあるよな」と愚痴めいたことを言ったことがあった。
「そんなに疲れるなら別れもいいのよ」と言い返した。
ひょっとしたら、その頃から、ゴロウの心は離れていたのかもしれない。肉体関係はあったので、そう簡単に離れられるはずはないと勝手に決め込んでいたが、結果的ゴロウの心は離れていってしまった。勝手に思い込んでいた自分が滑稽に思えてきて、悲しくなった。もうゴロウと付き合わない。ケイとも絶交だ。そう決めた。

 家の中でずっと引きこもったような生活ではいけない。だからといって大学に戻る気もしない。かといって働く気もしない。どうすることもできないもどかしさを覚えながら、時間だけが過ぎていった。
 優しかった父が家の中でぶらぶらしているサオリに向かって「いつまでも事故のせいにするんじゃない。大学に行く気がないんだったら、働け!」と怒鳴った。それ以来、父親とは口も利かなくなった。母親も父親に気兼ねしてあまり声をかけなくなった。
 独りぼっちになったと思った。この地上でたった独り。これからどうやって生きていけばいいのか? そんなときゴロウの顔が浮かんできた。彼がいてくれたなら、この寂しさは埋められるだろうとも考えた。彼の温もり。暖かい大きな手で抱きしめられると、不思議と心が休まることを思い出した。だ。しかし、ゴロウはもう手の届かないところにいる。ずっと手の届かないところに。人は大切なものを失ったとき、初めてその価値に気づくのだ。

サオリは親が自慢の明るくていい子だった。それが事故で人間が変わったように暗くなってしまった。分からない。足も言葉も少し障害があるが、さほど酷いようには見えない。医者も「奇跡だ」と言っていたのに、必要以上に引け目に感じている。母親はそれが悲しかった。
 ある日、母親が「ねえ、北海道に行こうか?」と言った。
「え、どうして?」
「だってあなたは行きたいと言っていたでしょう。私も行きたいの」
 本当はずっと心配してくれている母に有り難うと言いたかった。でも、自分自身の気持ちを素直に伝えられなかった。それが言葉に障害が残ったせいではないことも知っていた。
 彼女はただ「うん」とうなずいた。

 北海道は秋だった。野には秋桜が咲き乱れていた。
 二人は列車の中にいた。
「きれいね」と母は呟いた。
「そう……」とサオリは心ない返事をした。
 そこは東京と違って実に広かった。青い空の下を涼やか風が走り、可憐ピンク色の秋桜の花が揺れている。
 サオリは母親を見た。実に白髪が多いことに気付いた。いつの間に増えたのか。まるで老婆のように多かった。なぜだろう? と自問した。ひょっとしから、自分のせいではないかと思った。
「ごめんね」とサオリは囁いた。
「どうしたの?」と母親が聞いた。
「何でもないの」と答えたサオリの顔に一筋の涙の線があらわれた。
 母親には分かった。そして彼女の眼にも自然と涙が流れてきた。
「お母さん」とサオリは言おうした。しかし、母親が窓の外を見ていたので止めた。
 
 翌日の朝、サオリは何か思いつめたような顔をして母親に言った。
「また大学に行こうと思う。遅れを取り戻せるかしら? 応援してくれる?」
「何を言っているの。あなたならできる。どんなときでも、私とお父さんはサオリの応援する」と言った。
 すると、サオリの強張った表情が崩れ、あたかも一輪の花のような微笑みを浮かべた。
「でも、どうして?」と母親を聞いた。
「一週間前、テレビを見ていたら、交通事故の後遺症で苦しんでいる人がいたの。そしたら、自分が交通事故にあったのは不幸だけど、命が助かり、後遺症もほとんど残らなかったのは、幸運ではなかったかと思うようになったの」

 シェークスピアはこういった。“世の中には福も禍もない。ただ考え方でどうにでもなるのだ”と。