和貴子の不貞
『和貴子の不貞』
和貴子はこの頃、夢をよく見る。怖い夢や悲しい夢ばかり。楽しい夢は見ない。 夢のせいで夜中にふい目を覚ます。
目覚めたとき、どんな夢をみたのか、その夢にどんな意味があるのかを考えたりする。たいていは一人ぼっちの夢だ。悲しいくらい切ない夢。そして、ふいにこれからどうやって生きていけばいいのかと考えたりすると、悲しくて止め処もなく涙が流れてくる。
夫が死んで五年経つ。子供はいなかった。夫が死んだときは、沈鬱になりがちな気分を紛らわすそうと、旅に出たり、おいしいものを食べ歩いたりしたが、だめだった。五年も経っても変わらない。仕事でもしていたなら、気も紛れたかもしれない。しかし、あいにくと金の心配をする必要はなかったし、結婚して以来働いたこともない。
秋、古くから友人の香織から突然電話が着た。一緒に夕食でも食べようと誘いの電話である。
香織に夢の話をした。
すると、「一人がいけないのよ」と簡単に言った。香織はいつもこうだった。どんな複雑な問題も彼女の手にかかると、簡単に答えが出る。
「え!」と和貴子は驚き、「旦那は死んだのよ」と沈んだ声で言う。
「何を言っているの。だから自由じゃない。私なんか愚痴と文句しか言わない亭主がいるのよ。あなたのように自由になれる日をどんなに待ち焦がれていることか」
「亭主の悪口を言うものじゃないわよ。一人で眠るなんて、どんなに寂しくて頼りないことか」
「あら、そう。私たちは、もう二十年、寝室は別々よ。恋人を作りなさい。まだまだこれからよ」と香織はいう。
香織は服装デザイナーだ。いつも若い恋人がいる。亭主も公認だと言っていた。どんな亭主か和貴子は見たことが無かった。不甲斐ない男だろうと勝手に想像していた。
「とても、そんなことはできないわ。死んだ亭主に悪いもの」
香織はオーバーに呆れた素振りを見せた。
「だから、だめなのよ。よいこと。天国にいる、あなたの旦那様は、きっと寂しそうに暮らしているあなたを見ていて、悲しんでいるはずよ。発想の切り替えが必要よ。あなたには。何もしなかったら、……たとえば花を想像してごらんなさい。水をあげなかったら、どんなきれいな花も散る前に萎んでしまうでしょ。女は花なら、男は水よ」
その言葉のいろんな意味を考えた。男と女の関係もずっと無かった。 和貴子ははっとした。今日、出かけるとき鏡の中の自分の顔に張りがないことに気づいたことを思い出したからだ。香織の顔をじっと見た。
「あなたの肌はみずみずしいわね」
「ふぅ、ふぅ、ふぅ」と意味ありげに微笑んだ。
「そんなことはないわよ。あなたの方がずっときれい。私は化粧でごまかしているの。それとも若い男と付き合っているせいかしら。若い男はいいわよ。特に精力が有り余っている若い男は」
和貴子の方が顔を赤らめた。精力的な若い男がどんなものなのかを想像してしまったから。
「相変わらず、和貴子はウブなんだ。でも、女が女じゃなくなったらおしまいよ。男も同じだけど。いい男が知り合いになりたかったら、いつでも電話をしてね。紹介するわよ」
和貴子は首を振った。
「本当に?」
じっと覗き込むように和貴子を見た。じっと覗き込まれなかったなら、YESと答えたかもしれない。
「本当にいりません」
「ふーん」と香織は鼻を鳴らした。
縁側で一人和貴子は、庭を眺めていた。
黄金色に染まった枯葉が落ちていく。ふと、死ぬ間際に夫を看病しているときのことを思った。同じように秋だった。
病室の窓からぼんやりと外を眺めていた夫がつぶやくように話しかけてきた。
「オー・ヘンリーの小説を知っているか?」
「名前は知っているわ」と答えた。
「そうか。彼の小説の中にこんなのがあった。毎日、若い女が窓の外を見ていた。そこから壁に絡まる蔦が見えた。冬に近づくにつれ葉が一枚二枚と落ちていく。ある日、彼女は言うんだ。最後の一葉が落ちたら自分の命が消えると。何となく分かる気がするよ。こうやって、毎日、落ちていく葉を見ていると、まるで自分の時間が少しずつ散っていくような気がする」
何とも言えない悲しそうな夫の顔に見て、何も言えなかった。夫の死が間近であることは誰の目にも明らかだった。やせ衰え、ときに激しい吐血をして、生きているのも不思議なくらいだったから。
「俺が死んだら、自由に生きていいぞ」と夫は言って死んだ。
葉が落ちる。風もないのに。
「一枚、二枚」とつい数えてしまった。
夫が言っていたように自分の時間が落ちていくように思えてきた。時間が落ちていく。自分の中から。ポトン、ポトンと。まるで穴が開いているように。これからどう生きていけばいいのか。今にも崩れそうな自分の心を支えてくれる者がいない! と思うと悲しくて涙がぽろぽろと落ちてきた。
その男は突然、現れた。
「和貴子おばさんですね?」と青年は言った。
「あなたは?」
「春山賢治です」と青年は微笑んだ。
髭を生やしている。体もでかい。
「春山賢治って、あのケンちゃん?」と言うと、青年は頷いた。
十五年前の世界に引き戻された。彼女がまだ二十八歳、親しくしていた友人はシングルマザーで、子どもがケンちゃんだった。和貴子に子供がいなかったから、少年をかわいがった。まるで自分の子供のように。友人が死んだのが、ケンちゃんが十二歳のときである。少年は泣いていた。その泣く姿を見て、思わず抱きしめた。小さな手、曇りのない瞳。
母親が亡くなったので、ケンちゃんは、母親の姉が育てることになり、郷里の山形に行った。あれから十五年が過ぎた。
「今は何をしているの?」
「アルバイトしています。たまたま近くまで来たから、ついで訪ねてみようと思いました」
和貴子は懐かしさも手伝ってあれこれ聞いた。どこに住んでいるのだとか。
彼は微笑んだ。「昔と変わらないですね。昔とちっとも」
「どこが?」
「何でもかも聞こうとするところです」
和貴子は笑った。
「いろいろやっています。ボーイも。ホストめいたことも」と素直に答えると、和貴子は驚きの色を隠せなかった。和貴子はホストのことを良く知らなかったが、それでも少しばかりは知っていた。女の機嫌をとり、女に貢がせるのだ。小さい頃、彼は医者になると言ったのに。その夢はどうしたのか?
「定職はないの? 医者になりたいといっていたじゃないの」
立て板に水を流すごとく聞く。
「医者になることは止めました」
「どうして、興味がなくなったから」
「だって、あなたはお母さんのような人を救うんだと言っていたじゃないの」
「そんなときもありました。でも、今は人を救うことに興味をもてなくなった。結局、生まれたからには確実に死ぬ。それは早いか遅いかの差だけの差でしょ?」
和貴子は彼を見た。
どうして、そんな風に単純に割り切れるのか不思議でならなかった。その秘密をとく鍵が瞳の中に隠されているとでもいわんばかりに彼の瞳を見た。濁りのない純粋な瞳をしている。彼も自分のじっと見ていることに気づき、彼女は頬を赤らめた。同時に何か胸に疼くような何かを感じだ。
帰り際、彼の背中を見て、「また、遊びに来てよ」と言った。
「近くに来たら、来ます」と快活に答えて消えた。
数日後に香織に会った。
和貴子はこの頃、夢をよく見る。怖い夢や悲しい夢ばかり。楽しい夢は見ない。 夢のせいで夜中にふい目を覚ます。
目覚めたとき、どんな夢をみたのか、その夢にどんな意味があるのかを考えたりする。たいていは一人ぼっちの夢だ。悲しいくらい切ない夢。そして、ふいにこれからどうやって生きていけばいいのかと考えたりすると、悲しくて止め処もなく涙が流れてくる。
夫が死んで五年経つ。子供はいなかった。夫が死んだときは、沈鬱になりがちな気分を紛らわすそうと、旅に出たり、おいしいものを食べ歩いたりしたが、だめだった。五年も経っても変わらない。仕事でもしていたなら、気も紛れたかもしれない。しかし、あいにくと金の心配をする必要はなかったし、結婚して以来働いたこともない。
秋、古くから友人の香織から突然電話が着た。一緒に夕食でも食べようと誘いの電話である。
香織に夢の話をした。
すると、「一人がいけないのよ」と簡単に言った。香織はいつもこうだった。どんな複雑な問題も彼女の手にかかると、簡単に答えが出る。
「え!」と和貴子は驚き、「旦那は死んだのよ」と沈んだ声で言う。
「何を言っているの。だから自由じゃない。私なんか愚痴と文句しか言わない亭主がいるのよ。あなたのように自由になれる日をどんなに待ち焦がれていることか」
「亭主の悪口を言うものじゃないわよ。一人で眠るなんて、どんなに寂しくて頼りないことか」
「あら、そう。私たちは、もう二十年、寝室は別々よ。恋人を作りなさい。まだまだこれからよ」と香織はいう。
香織は服装デザイナーだ。いつも若い恋人がいる。亭主も公認だと言っていた。どんな亭主か和貴子は見たことが無かった。不甲斐ない男だろうと勝手に想像していた。
「とても、そんなことはできないわ。死んだ亭主に悪いもの」
香織はオーバーに呆れた素振りを見せた。
「だから、だめなのよ。よいこと。天国にいる、あなたの旦那様は、きっと寂しそうに暮らしているあなたを見ていて、悲しんでいるはずよ。発想の切り替えが必要よ。あなたには。何もしなかったら、……たとえば花を想像してごらんなさい。水をあげなかったら、どんなきれいな花も散る前に萎んでしまうでしょ。女は花なら、男は水よ」
その言葉のいろんな意味を考えた。男と女の関係もずっと無かった。 和貴子ははっとした。今日、出かけるとき鏡の中の自分の顔に張りがないことに気づいたことを思い出したからだ。香織の顔をじっと見た。
「あなたの肌はみずみずしいわね」
「ふぅ、ふぅ、ふぅ」と意味ありげに微笑んだ。
「そんなことはないわよ。あなたの方がずっときれい。私は化粧でごまかしているの。それとも若い男と付き合っているせいかしら。若い男はいいわよ。特に精力が有り余っている若い男は」
和貴子の方が顔を赤らめた。精力的な若い男がどんなものなのかを想像してしまったから。
「相変わらず、和貴子はウブなんだ。でも、女が女じゃなくなったらおしまいよ。男も同じだけど。いい男が知り合いになりたかったら、いつでも電話をしてね。紹介するわよ」
和貴子は首を振った。
「本当に?」
じっと覗き込むように和貴子を見た。じっと覗き込まれなかったなら、YESと答えたかもしれない。
「本当にいりません」
「ふーん」と香織は鼻を鳴らした。
縁側で一人和貴子は、庭を眺めていた。
黄金色に染まった枯葉が落ちていく。ふと、死ぬ間際に夫を看病しているときのことを思った。同じように秋だった。
病室の窓からぼんやりと外を眺めていた夫がつぶやくように話しかけてきた。
「オー・ヘンリーの小説を知っているか?」
「名前は知っているわ」と答えた。
「そうか。彼の小説の中にこんなのがあった。毎日、若い女が窓の外を見ていた。そこから壁に絡まる蔦が見えた。冬に近づくにつれ葉が一枚二枚と落ちていく。ある日、彼女は言うんだ。最後の一葉が落ちたら自分の命が消えると。何となく分かる気がするよ。こうやって、毎日、落ちていく葉を見ていると、まるで自分の時間が少しずつ散っていくような気がする」
何とも言えない悲しそうな夫の顔に見て、何も言えなかった。夫の死が間近であることは誰の目にも明らかだった。やせ衰え、ときに激しい吐血をして、生きているのも不思議なくらいだったから。
「俺が死んだら、自由に生きていいぞ」と夫は言って死んだ。
葉が落ちる。風もないのに。
「一枚、二枚」とつい数えてしまった。
夫が言っていたように自分の時間が落ちていくように思えてきた。時間が落ちていく。自分の中から。ポトン、ポトンと。まるで穴が開いているように。これからどう生きていけばいいのか。今にも崩れそうな自分の心を支えてくれる者がいない! と思うと悲しくて涙がぽろぽろと落ちてきた。
その男は突然、現れた。
「和貴子おばさんですね?」と青年は言った。
「あなたは?」
「春山賢治です」と青年は微笑んだ。
髭を生やしている。体もでかい。
「春山賢治って、あのケンちゃん?」と言うと、青年は頷いた。
十五年前の世界に引き戻された。彼女がまだ二十八歳、親しくしていた友人はシングルマザーで、子どもがケンちゃんだった。和貴子に子供がいなかったから、少年をかわいがった。まるで自分の子供のように。友人が死んだのが、ケンちゃんが十二歳のときである。少年は泣いていた。その泣く姿を見て、思わず抱きしめた。小さな手、曇りのない瞳。
母親が亡くなったので、ケンちゃんは、母親の姉が育てることになり、郷里の山形に行った。あれから十五年が過ぎた。
「今は何をしているの?」
「アルバイトしています。たまたま近くまで来たから、ついで訪ねてみようと思いました」
和貴子は懐かしさも手伝ってあれこれ聞いた。どこに住んでいるのだとか。
彼は微笑んだ。「昔と変わらないですね。昔とちっとも」
「どこが?」
「何でもかも聞こうとするところです」
和貴子は笑った。
「いろいろやっています。ボーイも。ホストめいたことも」と素直に答えると、和貴子は驚きの色を隠せなかった。和貴子はホストのことを良く知らなかったが、それでも少しばかりは知っていた。女の機嫌をとり、女に貢がせるのだ。小さい頃、彼は医者になると言ったのに。その夢はどうしたのか?
「定職はないの? 医者になりたいといっていたじゃないの」
立て板に水を流すごとく聞く。
「医者になることは止めました」
「どうして、興味がなくなったから」
「だって、あなたはお母さんのような人を救うんだと言っていたじゃないの」
「そんなときもありました。でも、今は人を救うことに興味をもてなくなった。結局、生まれたからには確実に死ぬ。それは早いか遅いかの差だけの差でしょ?」
和貴子は彼を見た。
どうして、そんな風に単純に割り切れるのか不思議でならなかった。その秘密をとく鍵が瞳の中に隠されているとでもいわんばかりに彼の瞳を見た。濁りのない純粋な瞳をしている。彼も自分のじっと見ていることに気づき、彼女は頬を赤らめた。同時に何か胸に疼くような何かを感じだ。
帰り際、彼の背中を見て、「また、遊びに来てよ」と言った。
「近くに来たら、来ます」と快活に答えて消えた。
数日後に香織に会った。