悲しい顔をしないで
そこは南の島の街である。家並みを縫うような細い道がどこまでも続く。
ぽつんぽつんと椰子の木立が点在し、そこが南国であることを教える。見上げると、かんかんと照り続ける日ざしが眩しい。
気まぐれにどこからかもなく涼しげな風が吹いてくる。
細い道を歩いていると、一陣の風とともにいい匂いがする。女の香水だ。それもどこか懐かしさを感じさせる匂いだ。
「こんな所で?」と思って振り向くと、あの人が歩いていた。日傘を差している。あの人は涼しげな顔で挨拶もしないで優雅に通り過ぎようとしている。
彼女に近づく。
「いい匂いがする」と言うと、彼女は振り返り微笑む。
「もう忘れられたのかと思った」と彼女は言う。
「そんなことはないよ、君の方こそ、ずいぶんとよそよそしいじゃないか」と抱きしめる。
そっと襟元の中に手をしのばせる。柔らかな乳房の感触が伝わってくる。
「いい乳だ」
微笑みの彼女は「見られるわ」と手を除けようした。
「恥ずかしいことなんかあるか。ここは情熱の国だぞ、見てごらんよ」ともう片方の手で指差す。
まるで祭りのようだ。あちこちで踊りの輪が在る。笑いながら老若男女問わず踊っている。みな褐色の肌をしている。恋人たちは寄り添い口付けをしている。
「祭りね」と彼女は笑う。笑うときはいつもそっと手で口をかざす。
愛しい女だ。首筋にキスをする。
「戻ろう」と彼女の耳元で囁く。
「戻るって、どこへ?」
「家にさ」
「家って?」
海辺の方を指差す。
「だめよ、私はもうだめなの?」
「どうしてだ?」
「私は女を捨てたのよ」と彼女は言う。
「そうだ、彼女は『女を捨て修道女になる』という手紙を寄越したのを思い出し、悲しくなった。
「そんな悲しい顔をしないで、私まで悲しくなるわ」と彼女の瞳から涙がこぼれてくる。
涙が流れてこない。悲しみが止まらないのに。いつの間にか涙が流れない人間になってしまった。そうだ、こんな悲しいのに、涙が流れないことは、前にもあった。……ずっと前。切なくなるほど悲しかった母の死のとき。自分の感情をどう表現したらいいのか分からなかった。あれから少しも進歩していない。
「もう、もう戻れないのか?」
「そんな、子供みたいな目をしないで、決めたことだから」
彼女はそう言って去った。前の彼女も同じようなことを言って去った。
「そんなに悲しい顔をしないで、別れは誰にもある、と教えてくれたのはあなたよ。そして人生は花火ように一時のことだと言った」
いつの間にか、夜に落ちようとしていた。風はない。
「ほら、花火が始まる」
大音響とともに花火が漆黒の空を彩る。その美しさに目を奪われた。
「さようなら」と彼女は言った。
振り返ると、彼女は人込みの中に消えていた。彼女の匂いも一緒に。甘い匂い、喧騒、花火、それら一つになり、めまいを感じた。ふと、我に帰ると、ホテルのロビーのソファに腰掛けていた。あれは夢だったのか。それとも……。