ゆめ
ふと気付くと、そこは夢の中だった。
冷たくて暗い、コンクリートの狭い建物の中に立っていた。
古いアパートの階段のようだ。
見慣れている。ここは、吐き気がするほどよく知っている場所だ。
螺旋階段を、窮屈な長方形に詰め込んだような、先の見えない箱の中だ。
――闇が迫っている。
足元の明かりは次第に吸い込まれてゆき、底なし沼のように、ぬめりと光った。
(逃げなくちゃ。…どこへ? …上だ、上へ!)
追いたてられる。ゆっくり、じわじわと、灰色を呑み込んでゆく、闇に。
上っても、上っても、階段は終わらない。もう何階まで来たのかすら覚えていない。
(あの建物は、そんなに高くはなかったはずだ。)
変わらない風景が不安を掻き立てる。
終わりが見えないということは、こんなにも恐ろしい。
ふいに、ぞくりと寒気がして立ち竦んだ。頭の中で警告音が鳴り響く。
(ダメだ、駄目だ。後ろを振り返ってはだめだ。)
ひたひたと、どこからか泣き声が忍び寄ってきた。
空気がざわざわと震えて、恐怖を運ぶ。
――どこかで、乳飲み子が泣いている。
(こわい。こわい。何だ、何が。)
闇に間切れて、泣き声が襲ってくる。私はただ、夢中で足を動かした。
何も見ず、何も考えず、何も感じず。そうやって必死で理性を繋ぎ止めていた。
声は次第に大きく、次第に叫びに変わっていく。
悲痛な、まるで赤子とは思えない質量で。
突然、目の前が真っ暗になった。階段もコンクリートの壁も、全てが消えた。
頭をかち割らんばかりの声も、そこでぷつりと途絶えた。
ドアが一つ。例のごとく見慣れた、二度と見ることはなかろうと思っていたそれだ。
恐る恐るドアノブを回す。嫌な汗が、背中を流れていく。
(…ああ、懐かしの生家よ。疾うに色褪せた、記憶の墓場よ。)
幼い日々となんら変わらない光景。拭い去れない違和感と、後味の悪さ。
導かれるように、奥の部屋、暖かく日の当たる寝室へと入った。
寝具に横たわるのは、静謐で美しい、我が愛しの妻。
その姿に安堵し、ため息をついたその刹那。空間を切り裂くようにあの泣き声がした。
妻のか細い体の横には、見覚えのない乳飲み子が眠っていた。
(なんだ、なにが、)
震える腕で抱きあげる。
先程までの泣き声は消え、腕の中でゆっくりと、その子が眼を開けた。
目があった瞬間。
首筋を濡れた舌でぬるりと舐めあげられたような不快感で、私は夢から醒めた。