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軽く俯いて、上目遣いで鏡を睨む。明るい茶色にした髪の根元から、本来の黒々とした髪が伸びてきているのがよく見えて、思わず溜め息をついた。今度はしっかりと正面を向いて、化粧っ気のないカラカラの顔を眺めると、染め直しを必要とする髪と相まってだらしなく見えて、本当にどうしようもないと思う。腫れぼったい瞼の下、一重の目に改めてうんざりした。なんとかしなきゃなぁ、と思ったそのとき、ガチャンという音が聞こえたので、洗面所から狭い廊下に身を乗り出すと、男が玄関で身を小さくしながら靴を脱いでいるのが見えた。挨拶無しに侵入する、まるで自宅のような振る舞いにはもう慣れた。靴を脱ぎ終えた男は一足を乱雑に玄関へ置き、そのまま私に歩み寄ると、「何してたの」と問うた。
「顔洗ってた」
「もしかして起きたばかり?昼過ぎなのに?」
「うん」
 最近始めたラーメン屋のバイトは深夜の時給が高いから、いつも朝方まで働いている。そう伝えると、「そんなに金が必要なのかよ」と笑われると同時に、肩に手を回された。そのままそっと押され、ベッドのある部屋に誘導された。やはり男は、ここが自分の住処であるように振舞っている。
 お金、必要だよ。貴方につり合うために髪を染めたり、化粧をしたり、ブランドバッグを持ったり、したいんだもの――でも、そんなこと言えない。気づいたら、ベッドの前にいた。男は先にベッドに腰をかけ、私は追うようにゆっくりと隣に座った。
「何で、そんなに必要なの」
「さあ」
「……」
 質問の答えを追求するでもなく、男は押し黙って、わざと雰囲気を変えようとしていた。最初からどうでもいい質問をしたのだ。でも。
 貴方に相応しい女になるために、私はいろいろしなければならないんだよ――なんて、私は答えないけれど。そうして、男はふと笑んだと思うと、私の頬に手を沿え、そのまま撫でるような手つきで顎、首筋、うなじ、と手を這わせていった。男の手は、女の性感帯を良く知っている。私は心地よくて、目をつぶる。了解の合図。けれど、この瞬間、いつも思う。私は、何で、この男の不定期に湧く性欲にいちいち付き合っているんだろう。そして、何で、朝日が見える頃までへとへとに働いて、自分を無理やり飾ろうとしているんだろう。そういう自覚が、この男の手を払い退けたい衝動となるけれど、私は結局何もしない。これで良い。だって今、こんなに心地よいのだし。けれどその衝動はかすかに残って、私は男の手の動きを止めようと肩口から掴んだ。ささやかに。
「……、」
 突如、私の唇の皮膚に弾力のある肉がぶつかって、ついでに勢いあまって歯と歯もぶつかった。私は思わず退こうとしたが、男の手はいつの間にか私の耳を弄っていて、私の動きに合わせて耳殻が引っ張られた。私はがっちりした男の肩から手を離し、腕で胸板から押しのけようとした。男の熱い吐息が、敏感になった唇の皮膚、超えて、咥内の粘膜に濃厚にかかる。不規則でかつねっとりとした男の舌の動きについていけない。私は観念して力を抜いてみた。と同時に、耳殻の複雑な造りに男の指が這う。ガサガサガサという、耳の産毛と指がこすれる音がダイレクトに聞こえてやかましい。男の息はますます熱くなっていて、その熱が私の身体にまで伝わってきているようだった。熱くて苦しくて、今度は顔を右に大きく振って、新鮮な空気を吸おうとした。すぐさま男の唇が追ってくるだろうと予測したが、けれど、即座に軽く突き飛ばされてベッドに背中から沈んだ。性急に、男が追うように私に覆いかぶさった今度こそ、唇か、それとも耳を狙われるかーー瞬時に考えた。けれどその一瞬の思考などどうでもよくて、男は私の耳たぶを唇でやわらかく挟んだという事実があるだけだ。男の熱いと息が耳全体に吹きかかり、ぞくっとした。私の吐く息は震えて妙な呻き声も漏れて、代わりに切れ切れに吸い込む空気は冷たく感じられる。先ほど指で弄ったように、男は舌で私の耳をめちゃくちゃに嘗め回した。硬く尖らせた舌は唾液を吸い込んでいて、くちゃくちゃくちゃという音が、やはり先ほどの様にダイレクトに響いた。
「ちょ」
 っと待って、と言えなかった。ピアスを開けた耳たぶは性感帯としてより強烈になっていて、舌と唇に愛撫される感覚をしっかりと拾ってしまう。いつの間にか男のたくましい両腕の中で抵抗されないように体が固定されていた。くちゃくちゃくちゃ。きっと今頃耳がべとべとになっている。唾液に濡らされた耳はいっそう敏感にであり、男のハァ、ハという吐く息さえも刺激として受け取っている。私の肩、背中はびくんびくんと素直に反応した。
「はっ、びくんてなってる」
 知ってる。囁くような男の申告に、私は心の中で生意気に答えた。けれど、ああ、全身が熱い。私は漏れる声の合間に、もうやめて、と何度も言おうとした。そして、耳の愛撫が粘着だった割に、男はさっくりと行動をやめ、体を少しだけ起こし、私に男の影がかかった。私は呼吸を整えながら、満足そうに私を見下ろす顔を見上げた。
「濡れた?」
「……」
 私は、何も答えなかった。呼吸が元に戻ってくると、なんとなく、酷い疲れを感じてきた。
「ねぇ、答えて」
「……」
「濡れてる?」
「…疲れた」
 しつこい男の追及に、私はうんざりとした様子で答えてみせた。
「え?」
 返ってくると想像した答えとかけ離れていたからだろう、男の声と表情は間抜けたものだった。そして、私は改めて、素直に答える。
「疲れたから、寝たい」
「なんで」
「疲れたから」
「……」
 男は、わざとらしく溜め息をつき、あっけなく腕の力を抜いて私の体を突き放した。私の反抗的な言葉で、高ぶった気持ちが一気に萎えたようだ。私も、興奮で潤った粘膜が乾きつつあった。今日はもう無いな、と思って安堵した反面、乾ききった意識と離れていった体温がもの寂しい。
「自分勝手だよな」
 男は1人で体を起こし、こちらも見ずにつぶやいた。その落ち着いた声色が何だか恐ろしくて、でも私は一瞬、何に恐れているのか分からなくなった。とりあえず何か言い訳をしようと思い、必死で言葉を考えたがーー先ほどから、自分の気持ちがコロコロ変化していることに気づいて、混乱した。
 私は何がしたいんだろう。男は依然、私を見ようともせずに黙り込んでいる。私が何か言い出すのを待っているとも思えないので、私は体の力を抜いて男の様子を伺うことにした。けれど、すぐにこの無音のやり取りが馬鹿らしく思えて、思わず「下らないね」と一人ごちた。本当に、全部下らない。
 男がこちらを見る気配がして、私も視線をそこへやった。にらむような男の目つきに、まさか、今の私の「下らない」の独り言が聞こえてしまったのかと思い、慌てた。
「最近お前、生意気だよ」
 やはり落ち着いた声色に不気味さを感じる、その間もなく、男は私に圧し掛かり、私の顎を掴み強引に上を向かせ、大きく晒された喉元に噛み付いてきた。
「う」
 噛み付くといっても、柔らかく、愛撫を目的とするように。首の薄い皮膚を啄ばんだり、吸い付いたり、その吸い付いた唇の隙間から舌を差し出し、皮膚を小刻みに刺激した。
「あ、はぁ、」
 情けない声が出て、悔しかった。しかし、
作品名:1 作家名:クネ