蒼月夜
風のない満月の夜に湖に行ってはいけない。水鏡に映る月は異界への扉。
山奥の、外界から隔絶された村。それが、リンデ村だ。四方を深い森に囲われ、村は自給自足の生活。訪れる者などいないに等しい静かな村。決して豊かではないものの、人々の心は穏やかなものであった。
レテは村のただ一人の医者、ルイスの一人娘。
森を抜けると湖がある。澄んだ美しい水の張った、深い湖。風の穏やかな日には鏡のように、周りの景色を、空を映し出す。満月の夜はどれほど美しいだろう。レテはそう思っていた。しかし、村には古くからの言い伝えがあった。曰く、「満月の夜に、湖にいってはならない」と。不可思議な言い伝えの意味を、知る者は居らず、けれど誰もがその言い伝えを守っていた。好奇心旺盛なレテは、満月ごとに挑戦してはいたものの、すべて途中で捕まり、そのたびに両親と長老からの説教を受けていた。
ある夜のこと、村医者である両親はお産があると呼ばれ、家を飛び出していった。小さな山奥の村。新たな命の誕生は、村をあげての大事件。今なら行ける。彼女はマントを羽織ると、こっそり村を抜け出した。木の間よりふる月影を頼りに、森の中を足早に進む。はやく見てみたい。その光景を思い浮べると、彼女の胸は期待に膨れた。
足下にばかり気を取られていると、視界が急に開けた。顔を上げた彼女の瞳に映ったものは、
――水が……蒼い………。光って………いる……の?
引き寄せられるように、覚束ない足取りで湖に近づく。足が、水に、触れた。
気が付くと街角に立っていた。蒼い光に照らされた、いや、街そのものが、蒼く光っているかのごとき世界。不思議と不安は感じなかった。ここにいることが当然かのように。通りの向こうに広場らしきものが見え、祭りなのか、多くの人影が動いている。足を進めかけ、少女はふと、傍らの小さな店に目をとめた。銀細工の装飾品が並ぶ、硝子張りの陳列台。眺めていると、店から翁が出てきた。
「気に入りなさったかね。」
「えぇ。これは全部あなたが…?」
「そうじゃよ。」
そう言うと、翁は何かを探るように、じっと少女を見つめた。どこか懐かしい感じのする、青灰色(ブルーグレイ)の瞳。納得したかのように一人頷くと、翁は陳列台から一つ取り出し、少女に渡した。
「これをあげよう。さぁ、じき夜が明ける。もう行くがよかろう。」
どこに?と思ったが、促されるまま、店の扉に手を伸ばす。指先が、把手に、触れた。
ふと気が付くと、いつの間にここまで入ったのか、水面が膝ちかくにある。ここに着いてからどれほどの時が経っているのか。水はもはや光ってはおらず、ただ、傾きかけた欠けることなき望月が浮かんでいるだけ。一陣の風が彼女の黒髪を揺らしていった。ふと、マントに重みを感じた。ポケットに手を入れ、探る。何も入っていなかったはずのそこには、しかし何か入っていた。不思議に思い、取り出し開いたレテの掌には、銀で作られた一角獣(ユニコーン)の首飾りが、月の光を受け輝いていた。