蝉と僕
「やっぱりさ、世の中を決定するのは金なんだよ。分かるか? か、ね」
蝉は呻くように言ってビールを飲み干した。カウンターに大きな音を立ててジョッキを置く。
まだ酔っ払ったようには見えない。蝉は大酒飲みなのだ。僕は彼の隣で適当に相槌を打っていた。
「金さえありゃあ、何でも出来る。そうだろ?」
「時と場合にもよるけどね」
「いいや、何でも出来るね。全てが自分の重い通りさ」
僕の返事なんか、彼は期待してはいなかった。
「酒は飲み放題、仕事はしなくていいし、女は抱ける。家だって建つし、人生全て道楽だぜ」
僕は水割りを黙って飲んだ。今は夜のピークらしく、様々な人がごった返していた。
蝉はビールの追加を頼むと、さらに声のトーンを落として言った。
「なあ、金が欲しいと思わねえか?」
彼の声は、周りの大声に紛れて、僕の耳には届かなかった。
「何だって? 大きな声で言ってくれ」
蝉は、僕の耳を引っ張って囁いた。
「金を盗もう」
僕は、食品会社の経理課に勤めている。一日中、同じ様な仕事ばかり。ぱっとした成果が無いので、三十五歳の今でも給料は少ない。
まあ、会社に居られるだけまだましなのかもしれない。最近上から叱られていない。そろそろ首がやばいのかもしれない。その内、肩を叩かれるのだろう。退職金をもらって、はいさようなら。
僕には妻もいなけりゃ子供もいない。結婚する気は毛頭ない。別に独身貴族を気取っている訳では無いのだが、女の本性というものが怖いのだ。
どこがどうというのは割愛するが、僕にはそれが耐えられないのだ。潔癖性とでも何とでも言うが良い。
とにかく、僕は女が怖いのだ。
蝉には女がいた。妻ではない。彼は、どうだ、これが俺の女だぜ、と言って僕に紹介してくれた。僕はおめでとう、とだけ言った。
彼は、たまにだが女の話をした。主に金銭に関する事だった。蝉は、女に貢いでいたのだ。
自覚はしているようだった。だが、彼はその関係を断ち切ることを決してしなかった。惚れ込んでいるのだ。
そして、彼は捨てられた。彼は、捨てられた理由が、金にあると思い込んだ。
それから、彼は必死で働いた。僕は端から見て、いつ過労死するか気が気じゃなかった。
そんな時、彼はこう言ったのだ。
「金を盗もう」と。
僕には、彼の気持ちが分からなかった。分かりたくもなかった。女という存在自体分かりたくなかった。
勿論、そうでない女性も大勢居るのだろう。だが、不幸なことに、僕はそういう淑女に会ったことが皆無なのだ。
僕の心中を全く知らない蝉は、僕の肩に腕を回して、もそもそと喋った。
「簡単な話だ。金が沢山集まる場所へ行けばいいんだよ」
彼の話には、欠点がまるで無かった。あたかも数年間練り続けた作戦のようだった。宝石店に入る、金庫を開ける、金を偽札と入れ替える。たったこれだけの作戦だ。
だが、彼はありとあらゆる情報を網羅していた。宝石店の開店、閉店時間に始まって、金庫の開錠方法、店内図エトセトラ。
蝉は肩に手を回したまま、僕に向かってにやりと笑った。
「これであの女も戻ってくるかな」
「多分ね」
僕は無難な答えを探し出した。
しかし、どうして僕まで巻き添えを喰ってしまったのだろうか。蝉とは知り合って八年になる。その内、女を紹介されたのが四年目、ふられたのが六年目だ。あれから二年か。
八年前の蝉は、えらく紳士だった。レディー・ファーストを重んじていた。
年月というものは、かくも人を変えてしまうのだろうか。今の蝉は、金の亡者だ。女に貢ぐ事ばかり考えている。
「次の月曜日に行く」
蝉は相変わらずもそもそと喋る。
「ちゃんと来いよな」
僕は、仕方なく首を縦に振った。彼はそれを確認すると、にやりと笑った。
「オーケイ」
蝉の作戦は成功した。少なくとも、多額の金を入手する事自体は。例の宝石店は、偽札を作った疑いで警察に捕まった。
蝉は、改めて女に言い寄った。
僕はといえば、いつもと変わらない生活を送っていた。ただ違うのが、強盗や泥棒が捕まったニュースを聞くとき、少し不安になる事だ。
暫くして、蝉から電話がかかってきた。かなり一方的な電話だった。
「おう、お前か。大変な事になった。女に金を盗んだ事がばれたんだ。このままじゃ二人ともムショ行きだ。でだ、俺たちは、」
蝉はそこまで言うと、思いっきり息を吸って吐いた。
「女を殺す」
僕は、ふうんと返事をした。
「何だよ、気のない返事だな」
「そう?」
どうせそんな展開になると思った。
「今度は俺一人で全て片付ける。お前にはもう迷惑の無いようにする」
僕は、その時初めて返事らしい返事を返した。
「どうせその女と心中するつもりなんだろ?」
暫くしてから返事があった。
「お見通しか。でもな、やめたよ。ついでに言うとな、遺書も書いたんだ。今はゴミ箱ん中だけどな」
彼はそれだけ言うと、咽の奥で笑ったような声を出した。
「頑張れよ」
「女はこれから向こうの山まで殺しに行く」
今は午後の十一時だ。
「行ってらっしゃい」
「おう」
最後に僕たちは、日常的な会話を交わして受話器を置いた。
僕は電話を切った後、妙に目が冴えていた。そして、僕はふと思い付いた。
もう迷惑の無いようにするんだよな?
僕にはもう迷惑の無いようにするんだよな?
だったら……