語らずの墓
生まれはどこか、兄弟はいるかなどと言ったことは、流石に聞いている。
奈良の片田舎で生まれ、事故で二親を亡くした妻は、ただ一人の姉(私にとっては義姉にあたる。だが妻と出逢った頃には故人であったので、私は写真でしか顔を知らない。妻に似ていた)と共に、親戚の家に身を寄せた。小学五年生の時だったと言う。
妻が私にその話をしたのは、付き合い始めて二年が経った頃だった。今から五年前になる。
きっかけは、プロポーズだった。私は、二年の交際を経て、彼女との結婚願望を抱くようになっていた。
二年もあれば、普通ならば身の上話など互いにするものだろう。
だが彼女は積極的には語らず、私もその辺りに当時は無頓着だった。彼女とはいるだけで楽しかった。彼女なしで私はこの先生きてはいけない。過去よりも未来に重きを置いていたあの頃の私は、やはり、若かったように思う。
プロポーズは、だから、私にとってはごく自然な成り行きのものだった。
妻(当時はまだ恋人だが、便宜上以降も「妻」と書くことにする)は、すぐに返事をしなかった。私は一ヶ月待った。正直な話、その間は生きた心地がしなかった。仕事でもミスを犯してしまったが、そんなことは彼女に言えなかったし、退職に追い込まれるほどのものでなかったのを幸いに今も言っていない。
ゆえに承諾の返事を聞いた時の、私の感動はどれほどのものだったか。そして世に憚る不倫を心地よいと感じる者たちを、当時の私は嘲り、軽蔑した。私はごくまっとうな形で、世間に認められる形で、最愛の人を得たのだ。私のような者こそが人生の勝者であり、人の道に外れた恋とその当事者達はこの私より劣っていると、本気で思っていた。
だから、妻がその返事の際に、自分の生い立ちを話してくれた時は、驚きよりも嬉しさが勝り、私は一層この女を生涯守り通さねばならぬと決意を堅くしたものだった。
今でもそれは、変わってはいない。
ただ少しばかり気にかかることがあった。
妻自身の返事はOKだったわけだが、彼女の養父母は難しい顔をしていた。交際中、私は多忙を理由に挨拶もせず、恥ずかしいことに結婚を申し込んだ後になって「やはり挨拶をせねばなるまい」と重い腰をあげたのだった。妻と一緒にいることだけにかまけて、それ以外が疎ましく思っていた。
歓迎されたか否かで言えば、おそらくされていなかった。と言うのも、養父母の返事も一応は良いとのことだったが、終始、私を値踏みするように眺めていたし、その返事にしたって、妻の静かな凄みを孕んだ主張(正直、この時の彼女を見て、私は驚いた。彼女はどちらかと言えば物静かで控えめな女性で、自分の意見はあるが我侭では決してなかった。私も、その凄みに飲み込まれて途中何も言えなかった)を前に気圧され、渋々したと言う経緯があった。
「私はいきたいのです。そのための覚悟はあります」
毅然と養父母にそう告げた妻を、私はますます好ましく思った。彼女となら生きていける。そう確信した。
子どもには恵まれていない。
妻は妊娠しにくい体だった。先天的なものではないらしいが、事情は教えてもらえなかった。
私は別に子どもは欲しいとは思っていない。彼女と一緒に暮らせるなら、それに勝る喜びは無い。気の置けない友人達でさえも、それを変わり者だとか、子どもを持つことは重要なので不妊治療を受けるべきだとか言ってもっともらしく私を諭した。だが、子どもは天からの授かりものであるべきだと私は思っているし、授からないなら授からないで構わないと言うのが、私の考えだと言い、今日では誰も強く私に子どもを持てと言う者はいない。両親に関しては、すでに三人の孫を兄夫婦がもうけたため、私に対してとやかくは言わない。そう思うと彼女との結婚をあっさり認めてくれた、と言うより早く身を固めろと言ったのも、この兄夫婦のおかげなのかも知れない。
ともかく。事が事だけに、己の体質のことだけは言ってくれたが、どうしてそうなったかについては堅く口を閉ざしたままだった。
それについて、私はあえて問いただすことはしなかったが、そこではたと、そういえば私は妻の過去についてあまりにも知らないことが多すぎることに思い至ったのだった。
そうなると、おそらくは無意識下に眠っていただけだろう、欲求が目を覚まして襲い掛かる。私は妻のことを、もっと知りたくなった。
妻は語らない。
年度が改まった日、それとなく聞いてみた。はにかんだように、笑っただけだった。
今度は外食に出た時、その帰り道で聞いた。後ろから走ってきた自転車にベルを鳴らされて、中断した。
夜、閨で聞いた。悲しそうな顔をしたので、そんな顔を見たくなかった私は諦め、無言で彼女を求めた。
四度目のチャンスを窺っている時、ふと、別に知らなくてもいいのではないかと思った。
妻は妻だ。それでいいのではないか。
私は聞くのを諦めた。ただ、また、ふとしたきっかけで疑問の種が芽吹くかも知れない。その不安は、おそらくまだしばらくは私の胸に巣食うだろう。だがそれでも、私は彼女を愛せるはずだ。
私は笑った。笑って、いつもの通りに、彼女に愛していると言い、床を共にした。
『1990年 5月17日
四度目、聞かれたら答えようと思った。
でも夫は、三度目でやめたみたいだった。
四度目なら、流石に、決心がついたのに。
貴方になら、話してもいいかと思ったのに。』
『■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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■■■■■■■■■■。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。』
二十年が経ち、妻が他界した三日後。私は彼女の日記を見つけた。
彼女を喪って、私は初めて彼女の過去を知った。
もっとも雄弁にそれを語ってくれたのは、彼女の口でなく筆であった。
一度は紙に書き付けたそれを、彼女は、太いペンで一直線に塗りつぶしていた。くしゃくしゃに同じペンで字を潰すように消してくれたら、きっと読めなかった。
年を取って、目も悪くなった私に、それを読み取るのは至難の業だったが、わざわざこのような消し方をした妻の気持ちを思うと、苦ではなかった。
読み終えて私は、一層彼女を愛しく思い、全てを墓にまで持って行こうと決めた。
幸いにして、私にはもう、彼女以外に家族はいなかったのだから。誰かに語る必要は、もはや無い。
【終】