この世の夜にさよならを
実際に頭が円を描いていたのかもしれない。
屋上まで登ってこられたのが不思議な程に、覚束ない足元。
靴を蹴るようにして脱ぐと、
コンクリートの冷たさが靴下越しに伝わってきた。
「 俺も、そっちに行って良いだろう?なあ…許して、くれよ… 」
記憶を飛ばしたくて度数の高い酒を浴びるように呑んでみたが、
吐きそうになり、身体が思うように動かなくなっただけであった。
こうなりたかった訳じゃない。全て忘れてしまいたいだけだったのに、
「 畜生…、 」
必要な時に、何故それが出来ないのだろう。
泣きたいのに涙は流れてくれなかった。
もう枯れ果ててしまったというのか。
朝日が出てきたようだ。細い光が差してくる。
その眩しさが彼女を思い出させるようで、何とも言えず哀しくなった。
目をぎゅっと閉じ、少しでも光から、二人の思い出から逃れようとしてみる。
しかし目を閉じると、逃れようとした彼女との思い出しか浮かんでこなかった。
今はもう亡き彼女と過ごした、かけがえの無い大切な日々。
誰かをこんなに想ったのは初めてで、どうすれば良いか分からなくて、
それでも自分なりに一生懸命、彼女を愛して、愛して貰って。
暫く思い出に浸っていたが、強風に吹かれ、身体がよろけて我に返った。
ビルの屋上の縁。
自分は今、何をしようとしているのだろう。
まさか、この場所から飛ぼうと、飛び降りようとしているのか?
そもそも此処は地上何階だったか。
下を見れば、此処から落ちれば即死となることだけは分かる。
このまま後を追ったら、彼女は悲しむより先に怒るだろう。
何をしているのかと、大して怖くもないしかめっ面で。
でも俺は此処から飛び降りたい。
飛び降りてしまいたい、のに。
叫んだ。
彼女がこの世から去ってしまった事実。
追い掛けたいのに飛べない自分への失望。
昔も今も、本当に情けない男だな、俺は。
――嗚呼、やっと涙が出てきた。
朝日が昇り、更に明るさが増した。眩しくて思わず目を細める。
すると、目の前で手を差し出している君が見えた気がして、俺は手を伸ばした。
触れたい。その手を取りたい。一緒に連れて行って欲しい。
お願いだから俺も連れて行ってくれよ。寂しいんだよ。
やっぱり俺一人じゃ駄目なんだよ、なぁ、頼むよ。頼むから、
愛しい人へ手を伸ばす。
君の居ない真っ暗な夜の世界から、
君の居る、明るい陽の差す世界へ行きたい。
君は振り払わず、この手を取ってくれるだろうか。
作品名:この世の夜にさよならを 作家名:ゼンマイ