2月13日の戦場
2月13日。14時。
バレンタインコーナーはまさしく戦場だった。
唯子は戦場というものを映画や小説などの創作でしか知らない。だが、ここはまさしく戦場であると彼女は確信した。足を踏み入れるには勇気がいった。いや、そもそもバレンタインチョコを買うという行為がすでに、彼女にとって多大なる勇気を要することであった。
買うまいか、と長い時間迷った。たかだかチョコレートをひとつ買ったところで、なにかが変わるとも思えなかったのだ。
それは、本当はただの言い訳だった。唯子はそう思いたいだけなのだ。たかがチョコレート、されどチョコレート。その間でふらふらとさ迷い、うだうだと悩み、そして今に至る。
唯子は決心した。
決心して、戦場へと足を踏み入れた。
心は武将――いや、雑兵、足軽だ。弱小の。
有名どころのチョコレートはほとんど売り切れていた。残っているのは安いチョコだけだ。
人にもみくちゃにされながらチョコレートを吟味する。ビター、マイルド、ミルク、アーモンドが入ったもの、笑いを狙ったもの、ビールやワインまで、あった。
いったいどれを買ったらいいのかわからない。唯子はほとほと困り果てて、うろうろと棚を見て回った。
チョコレートは、同僚にあげるものだ。唯子よりもひとつ年下の、笑った顔のかわいい人だ。年上からも年下からも同性からも好かれるような男の子で、きっと、明日の彼の机はチョコレートでいっぱいになるのだろう。インパクトのあるチョコにしたい、という気持ちと、その他のチョコに埋もれてしまうような存在感のないチョコにしたい、という気持ちがあった。どちらも唯子の本音だ。
唯子が今日、買い求めるだろうそれはいわゆる本命チョコということになる。告白をしようという気はない。唯子にとって大事なのは、本命チョコを好きな人に贈る、ということだった。
気弱すぎる、と唯子を知る人はいう。でもどうしても、告白だけはできそうになかった。
唯子は自分というものをよく知っていた。かわいくも美しくもなく、スタイルだって普通で、会話も苦手だ。自分で自分を好きになれないくらいなのだから、他人が自分を好きになるはずがないと、唯子は考えていた。
人波に追いやられてコーナーの隅にたどり着き、唯子はふぅと息をつく。人が集まっているせいで、バレンタインコーナーだけ異様な熱気に包まれていた。じわりと額に汗が滲むほどだった。
ふと、棚に目をやる。チョコレートを手作りするためのコーナーで、チョコレートのブロックの他にもクッキーやケーキを作るための製菓用品が置いてあった。手作りチョコなんて、もっとハードルが高い。
小学校低学年ほどの、小さな女の子が真剣な様子で商品を手に取っている。作るのだろうか……。
視線に気づいたのか、少女が顔を上げた。不思議そうに、大きな目をぱちぱちしている。
「……手作りするの?」
唯子が話しかけると、少女は再びぱちぱち瞬いて「うん」と頷いた。
「お姉ちゃんも作るの?」
「私は……作らない、かな」
「じゃあどうしてこっちにいるの?」
唯子は戦場を振り返る。少女もつられたようにそちらを見て「混んでるね」とぽつりと言った。
「早く買わないと、なくなっちゃうよ?」
「……うん。どうしよっかなって、思ってたところ。やっぱり買うの、やめようかな……」
「どうして?」
唯子は少し迷って「勇気がなくて……」と呟いた。子供相手に何を言っているんだろう、とばかばかしくなりながら、子供相手だからかも、と思いもする。
「本命チョコなの?」
「……一応」
「ふぅん。私はね、パパとおじいちゃんにあげるの。パパは食べてくれないけど」
唯子は首を傾げる。チョコレートが嫌いな父親なのだろうか? 一年に一度、それも娘が作ったものだから、食べるふりぐらいしたって良さそうなのに。
「パパはチョコを食べられないの。死んじゃったから」
少女はチョコレートのブロックを手に取ってじっとそれを見下ろしている。唯子は沈黙して少女の頭頂部を見下ろした。何も言えなかった。何を言っても白々しくなりそうだった。
「私本当は、パパにチョコ食べて欲しいのよ?」
チョコを握りしめた少女は、戦場へと向かった。
「お姉ちゃん、チョコ、買うといいよ。来年がさ、あるって思っちゃだめだよ」
少女の姿が人込みに消えるまで見送って、唯子は沈黙したままチョコレートのブロックを取り上げた。おまけのようなレシピも一緒に取って、飾り付けの砂糖菓子やカラフルなチョコレートスプレーも掴む。
唯子はきっと、14日に告白をしないだろう。けれど、溶かして固めただけのチョコレートを、彼の机の上にではなく、彼に直接手渡そうと、思った。