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夏の病

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体が重力に引かれて落ちていく感覚にはまだ慣れないけれど、その先に待っているものを知っているから怖くはない。
 息を止めた。ざぶ、と耳元で音が鳴る。息を吐いた。目が痛くなるのを知りながら目を開けた。ぼやけた視界に、水面に向かって浮かび上がる泡が映った。
 今日は快晴。水を隔てた向こうの空は青い。
 足を緩く動かした。それだけで、体は簡単に水面に向かって上昇していく。水面に顔を出し、息を大きく吸った。口に水滴が入って、潮の味がした。海の味だ。夏の味だ。
 仰向けになって浮かぶ。強い日差しはあっという間に肌を乾かしていく。海水が入った目はなんだか腫れぼったいような気がしたが、気分は悪くなかった。
 夏だ、と思う。海と花火とスイカの季節。
「おにーさん!」
 崖の上に目を向けると、日和が俺に向かって手を振っていた。
「じいちゃんがスイカ買ってきたよー!」
 早く帰ってきてね! と叫んで、彼女は家の方に向かって走っていった。
 くるりと体を反転させる。乾いた頬が海水に浸かる。海岸までは50メートルといった所。息を吸って、潜って、水を蹴った。視界を小さなものがいくつか横切っていった。突然動き出した僕に驚いて、魚が逃げ出したようだ。
 何度か息継ぎをしながら陸を目指す。泳ぐのは苦手ではなかったけれど、得意でもなかった。体力だってある方ではないのに、いつの間にかこんなに泳げるようになっていた。すっかり変わってしまったなぁ、と溜め息をつくと、またぶくぶくと泡が生まれた。
 気がつけば、水底に足がつく深さ。砂に足を埋めながら歩く。水を吸ったシャツが重かった。
「すっかり泳げるようになりましたね」
 僕を待っていてくれたのか、タオルを持った灯さんがくすくすと笑っていた。
「もうこっちに来て1ヶ月になりますからね」
 タオルを受け取り、髪と顔を拭う。
「最初はあんなに嫌がってたのに、海に入るの」
「……まあ、変われば変わるものなんですよ、きっと」
「そうみたいですね」
 タオルを首に掛ける。それと同時に、素っ頓狂な声が砂浜に響いた。
「あー! 灯姉ちゃんずるいよ!」
「あら、日和ちゃん。こんにちは」
「こんにちは! ……じゃなくて。あたしがタオル持って来ようと思ったのに!」
 これも使って! と頭にタオルを掛けられる。仕方なく髪を拭うふりをした。この暑さで、髪は乾き始めていた。
「じいちゃんがスイカ買ってきてくれたの! 灯姉ちゃんも一緒に食べようよ」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」
「やった! あっ、お兄さん!」
 半乾きのシャツを引っ張り、日和は言う。
「お兄さんも、ありがとうは?」
「あ、ああ……ありがとう」
 ありがとう、と言う事も、ここで覚えたような気がする。
「どういたしまして!」
 日和は満面の笑みを浮かべた。そして灯さんと僕の手を取り、引っ張りながら歩き出す。
 漂流物を避けながら熱い砂浜を抜け、石を固めた階段を上る。アスファルトで覆われた坂を下りる。途中でアスファルトは途切れて、砂利道になっている。じゃらじゃらと音を鳴らしながら数十メートル歩けば、僕がお世話になっている家に到着だ。
 日和は引き戸を勢いよく開けた。耳が痛くなるような、大きな音を立てる。
「じいちゃん、ただいま!」
「お邪魔します」
 日和の急かすような視線を受けて、僕はしぶしぶ口を開く。
「……ただい、ま」
 未だに照れくさくて、頬が熱くなる。それでも言えるようになっただけマシかもしれない。
 お兄さんはこっち、と脱衣所に放り込まれた。ずぶ濡れの服を脱ぎ、シャワーを浴びる。ざらつく髪と目を念入りに洗い、新しい服に着替える。ふと鏡を見ると、真っ黒に日焼けした顔が映った。
 今頃彼らはどうしているのだろう。ミイラ取りがミイラになった、なんて笑っているのかもしれない。もしかしたら、そうとすら思っていないかもしれない。それはほんの一月前まではたまらなく屈辱的な事だった。だけど今は、どうでもいい……という訳でもないが、それほど気にはならなくなった。
 板張りの廊下を歩いて、丸い取っ手の付いたドアを開ける。
「おう、泳いでたのかぁ」
 陽太さんはいつものように扇風機の前に胡坐を掻き、片手にスイカを持っていた。
「お兄さん、海なんて大嫌いだったのにね」
 スイカに塩をかけながら日和は言う。さっき言われたばかりの言葉だ。僕と同じ事を思ったのか、灯さんが微笑む。
「最初に坊主が『これはとんでもない病気だ!』なんて駆け込んできた時は驚いたなぁ」
 僕はスイカを一切れ手に取った。塩はかける派だが、日和が塩の瓶を掴んだままなので、諦める事にする。
「子供だけならまだしも、大人やお年寄りまで海に飛び込むなんて、異常としか思えません」
 スイカを齧る。さすが陽太さんが選んできたスイカだ。甘い。
「でも、お兄さんも飛び込んでるよ? ね、灯お姉ちゃん」
「そうね。それも今日だけじゃなくて、もう何回も」
「……訂正します。異常としか、思えませんでした」
 陽太さんは声を上げて笑った。この豪快な笑い声にも慣れてしまった自分がいる。
「そりゃあ何よりだ! 俺たちに言わせりゃあ、こんないい日に海に行かねえ方が異常だ」
「じゃあ、スイカ食べたらじいちゃんも一緒に行こうよ!」
「おう、久しぶりに行くかぁ」
 やった! と声を上げて、日和はあっという間にスイカを平らげる。
「早く行こうよじいちゃん! お兄ちゃんも灯姉ちゃんも行くよね?」
「そうね、でも海に入るのはやめておこうかな」
「僕も、今日はもうやめておくよ」
「つまんないの。でも、じいちゃんがいるならいいや!」
 皿の上にはまだスイカが数切れ残っていたが、日和は構わずに冷蔵庫にしまう。こらぁ、と緩く叱る声は聞こえないふり。日和は外に飛び出していく。
 タオルを持って日和を追いかける。砂利道を通り過ぎて、アスファルトを蹴って走る。小さな背中が、夏の日差しに染まる。
 崖の上に辿り着く頃には、引いた汗もまた噴き出していた。日和は腕をぐるぐると回しながら、足をぶらぶらとさせながら、僕達を待っていた。
「行こう、じいちゃん」
「おう」
 日和は陽太さんの手を取った。地面を蹴って、落ちていく。しばらくの間の後、どぶん、と音がした。
 地面に手をついて覗き込めば、水面に顔を出してじゃれ合う二人の姿。
「……私も、あなたと一緒だったんです」
 灯さんが呟いた。
「ここに来たばかりの時は、驚きました。驚いたし、ここの人達は、それこそ、病気なんじゃないかって思いました。……でも」
 灯さんが立ち上がる。濃紺のワンピースが揺れる。
「あんなに幸せそうなら、病気でもいいのかもしれない、って。いつの間にかそう思っていました」
 もう一泳ぎいかがですか、なんて手を差し出された。僕は迷わずその手を取った。
 仕方がないんだ。だって今日は、こんなにもいい天気。

(END)
作品名:夏の病 作家名:宇津 倉