ともだちのしるし
四月十二日(月)「応援」
今日から新入生の部活見学期間だ。早速、新入生が二人見学に来ている。部活見学といっても、大それた事はしない。展示された過去の作品を観たり、部員の作業を見学したり、質問を受けたり、閑談をする感じだ。結構のんびりとしている。
ただ、去年と違うのは新入生の手に紙コップが握られている事。コーヒーとオレンジジュースを準備したんだ。少しでも新入生の緊張が和らいだらいいなと思って、私が何気なく言った呟きだったんだけど……。部長がそれを部活見学計画書に盛り込んで、見学に来た新入生に対してのみ提供するなら良い、と生徒会から許可が出たんだ。これって、私のアイデア……、って言っていいのかなあ? だから、その手にあるコップを見ると、何となく気恥ずかしかった。
「部長、じゃあチョット行ってきます。三十分位で戻る……かも、です」
「お、行ってこーい。部活時間内には戻って来いよー」
「はーい」
主に、油絵で植物や風景画を描く愛華ちゃんは、時々こうしてモチーフを探しに外に出る。でも、たまに夢中になると戻って来なくなっちゃう。いつだったか、戻って来ないまま部活が終わっちゃって、帰りに公園の花壇にいる所を見つけた事があったっけ。
私は主に水彩で人物画が多い。もちろん風景も描くけど、それは人物を引き立たせる脇役として。それと、私はあまりモチーフ探しはしない。どちらかと言えば、頭の中にあるイメージを紙に具現化していく感じだ。
その水彩画を描くための準備をしていく。水彩紙という、水彩画を描くための専用の紙があって、幾つも種類がある。絵の具の滲み具合や発色がそれぞれ違って、描くモチーフによって適したものがある。もちろん値段も違う。高いのは買えないから、私が使っているのは真ん中位かな。その水彩紙を、水が張られたバットにそっと浸す。
カラカラカラ……。
美術室のドアが静かに、少しだけ開いた。愛華ちゃんかな、それとも新入生かな。でも、ドアは開いたけど誰も入って来ない。不思議そうに見ていると、ヒョコッと出てきた顔にぎょっとした。
(す、鈴川さん!)
キョロキョロと室内を見回している。そして、私と目が合うと、私の面食らった顔とは対照的に、子供が大好きなオモチャを見付けたかのように、ぱあっと顔を明るくした。大きくため息をついてドアに向かう。
「部活には来ないでよ」
小声で制止する。できれば帰って欲しい。走り回るに決まってるんだ。転んだりして制作中の作品を台無しにしかねない。
「応援するの」
「ええ!?」
そうか、今気付いた。自分の蒔いた種とはいえ、少し後悔していた。今は部活見学期間。友達の定義を語ってしまった以上、その目的が応援だったとしても、形としては部活見学という事になる。部活見学に来た新入生を追い返すほどの説得力がある言葉を、私は持ち合わせていなかった。
「ん? どうした、美胡っち」
「あ、部長。あの、見学したいという一年生がいるんですが……」
中に入れるしかなかった。
「お、入部希望者? うん、いいよ。大歓迎だよー」
親指を立てる。
「みんなの迷惑にならないように、静かにできる?」
「うん、できるよ」
仕方がないか……。みんなに迷惑が掛かるようなら帰ってもらおう。もう一度ため息をついて中に入れる。親ガモの後に続く子ガモのように、ピッタリと後ろに付いて来た。自分が作業をしているテーブルの椅子に着かせる。
「いい? 静かにしててよね」
「うん。白、静かにしてるよ」
もう一度念を押して、また作業に取り掛かる。
「なにやってるの?」
いきなりテーブルに身を乗り出してくる。
「ちょっと触らないでよ。……これは"水張り"だよ」
「みずばり?」
「水彩画を描く為の前作業だよ。水彩画は、描いてると紙が波打って仕上がりが悪くなるから、それを防ぐために水張りっていう作業をするの」
水に浸された水彩紙に目をやりながら説明する。
「このまましばらく置いて、紙が水と馴染んだらこのベニヤ板に固定して、乾いたら水張りは終わり。そうすると、塗った時に多少たわみは出るけど、乾くと紙はピンと張って奇麗に仕上がるんだよ。分かった?」
「う〜ん、よく分かんないや」
「あ、そう……」
この子は美術に興味があるんじゃなくて、単に私がやる事に興味があるだけなんじゃないか?
「そうだ、コーヒー飲む?」
折角用意してあるのだから、勧めないのは失礼だよね。
「ううん、いらない。白は飲めないから」
「そっか、オレンジジュースもあるけど」
「白は飲めないからいらないよ」
「え? そうなんだ」
コーヒーが飲めないという人は聞いた事があるけど、オレンジジュースも飲めないのか。アレルギーでもあるのかな? 他に出してあげられるものはないし、飲めないなら仕方がないか。
バットから水彩紙を取り出し、ベニヤ板に慎重に乗せる。
「ちょっと静かにしててね」
あらかじめ切っておいた水張りテープで、水彩紙の四辺を固定していく。
鈴川さんは私の言葉を守っていた。静かだった。視界に姿が入っていないという事は、椅子に座っているようだった。その時、部長が意外な事を言った。
「美胡っちー、ところで見学者はどうしたんだ?」
「え?」
(鈴川さんならここに……)
振り返ると、いるであろうと思っていた椅子に姿が見えない。
(あれ?)
美術室内を見渡しても、彼女の姿はなかった。今までここにいたのに。いつの間にか帰ったのだろうか。
「あ、あの、帰っちゃったみたいです」
「そうか。それは残念だ」
あんなに応援すると言っていたのに何も言わずに帰ったのは意外だったけど、帰ったのなら、それはそれで私は構わなかった。