永遠のフィルター
五月になり日が長くなったとはいえ、窓から差し込む光はもう茜色に染まっている。もしも光に触れることができるなら、その感触はきっと柔らかいのだろうなと思わせるような、そんな西日だった。
つい数年前に建て直されたばかりの校舎は、この町にはどこか不釣合いな、現代的な建物だ。底面が一般的な学校の校舎のような長方形になっておらず、かなり正方形に近い。その真ん中が吹き抜けになっていて、天窓からは太陽の光が差し込むようになっているのだけれど、天気の悪い日の多いこの地域ではあまり役に立ってはいないように思える。一体こんな建物を建てる予算がこの町のどこにあったのだろうと、PTAや授業参観でこの校舎に足を踏み入れるたびに母は首を捻る。
階段を駆け降りた。今日の夜行列車で父は東京に戻ってしまう。次に帰ってこれるのは一月ほど先になるらしい。早く帰らなくては。
一応休み時間は廊下を走らないようにしているけれども、注意する先生もいない。四階から三階、三階から二階へ。静かな校舎に僕の足音がやたらはっきりと響いた気がした。グラウンドからは、野球部員の声が遠く聞こえてくる。
二階と一階の間の西側は窓が大きく取られていて、差し込む夕陽が踊り場全体を赤く染め上げていた。その柔らかな光の中に、土谷美月は立っていた。
そういえば同じクラスだったな。そんな今更過ぎることが唐突に浮かんでくる。ふと、このクラスに上がってから、最初の自己紹介ぐらいでしか土谷の声を聞いた覚えがなかったことに気がついた。自分のいるグループが、わりと女子と接点が少ないほうだとはいえ、そんなことは小学校の頃だって同じだ。
声だけじゃない。欠席者リストに名前を見た記憶もないのに、その姿の印象がまるで残っていない。小さい頃から土谷はわりと背が高く、脚も長く、最近はちょっと珍しい肩の下まで延びた長い髪で、決して目立つわけではないけれども集団に紛れていても見つけ出すのはそう難しくない。いれば気づくはずだ。
勿論、幽霊だとか、実はいなかったのだとか、そんなことはない。土谷のことは小学校の頃から知っているのだ。ホラー小説でもあるまいし、土谷は間違いなく生身の人間で、確かにあの教室にちゃんと毎日いたのだろう。僕が気づかなかっただけで。
「土谷さん」
その名前を呼ぶのはいつ以来だろうと考えて、そういえば道端や廊下でも、六年生に上がる時のクラス替え以来土谷に会っていなかったなと思う。暇な日は大体夕方閉館ぎりぎりまで図書室に居座っていたからだろう。土谷は、何をして過ごしていたんだろう。
「……土谷さん?」
返事はない。この距離なら聞こえているはずなのに。僕が土谷がいるのに意識に入っていなかったように、土谷の意識にもまた僕は入っていないんだろうか。そんなことを考えた瞬間、土谷は、跳んだ。
学校指定の運動靴の爪先が、フローリングの床を蹴る。助走をつけて、数歩、ふわりと持ち上がった体には、まるで重さなどないようだった。あの細い脚のどこにそんなばねがあるのだろうと思うぐらい、土谷は上へ、前へ浮かび上がる。踊り場から一階の床までは八段、高さは二メートルほど。その中を、途中の段に足を取られるようなこともなく、土谷は跳ぶ。滞空時間はほんの僅か。だけど、それが妙に長く感じられたのはどうしてだろう。
音が、靴と床に吸い込まれた。猫のようにしなやかに、爪先から衝撃を受け流すように着地した。制服と髪の毛が、体に一瞬遅れて落ちる。痛くないのだろうかと思うより先に、土谷は玄関に向かって走り出していた。
そして、今。あの時と同じように、土谷美月は着地した。あの時と違うのは、そのまま走り去らなかったことぐらいか。
「土谷さん」と声を掛けたけれど、返事はない。無視されたのかと思ったが、よく見るとそんなような感じでもない。何を見ているのだろうと思ったけれど、その視線を追うことはできなかった。土谷の右目と左目の見ている方向が、どう見てもずれていたからだ。
何が見えているとも思えない。ただ、ぼんやりと顔を正面へ向けているだけに見えた。「土谷さん」
もう一度、声を掛けてみる。反応はない。学校の階段で見かけたときとは違う。土谷は、歩道橋を上ろうとした僕の真正面に降ってきたのだ。普通であれば視界に入っていないはずはないし、声が聞こえていないわけもない。
「……大丈夫か?」
さすがに様子がおかしい気がして、僕は土谷に手を伸ばした。表情がわからない。肩をぽんぽん、とはたこうとした瞬間、土谷の目の焦点が合わさったように見えた。そのまま、一歩後ずさりされる。その反応を見て、僕はなんとなく手を引いた。
「川口君?」
その声は、確かに僕の知っている土谷美月のものだった。いつの間にか、表情も顔に戻っている。この顔も、知っている。満面の、とはいかないが小さく控えめに笑う様子は、僕が小さな頃から知っている土谷だ。
「偶然だね。本屋さん行くの?」
「ああ」
子供の頃からそうだった。放課後や休みの日に道端で会うと、必ず本屋に行くのかと聞いてくる。他に行く場所などないと思っているのかもしれない。それぐらい僕は確かに本屋か図書館に通いつめてばかりだったので、だいたいは正しいのだけれど。そういえば小学校に上がって、知り合ったばかりの頃は「どこ行くの?」だった気がする。
「奇遇だね。私は今行ってきたところだよ」
嬉しそうに笑う土谷の鞄からは、じゃらじゃらと金属の触れ合う音がする。キーホルダーか何かだろうか。あの錠だらけの玄関を開けて家に帰るためには、一体いくつ鍵が必要なんだろう。
そんなことを考えているうちに、土谷は「じゃ、また学校でね」と行って、本屋とは反対側、家の方角に向かって土谷は走っていく。その足取りに、高いところから飛び降りた形跡は感じられなかった。
そのすらりとした背を見送って、歩道橋を上る。地面からでは見えない曲がり角よりも向こう側に、足を止めずに走る土谷の姿が見えた。
「あ」
ふと、僕は聞きたかったことがあるのを思い出した。だけど今更追いかけても追いつくことはできないだろうし、追いかけてまで聞くようなことでもないような気もした。また今度、聞けばいい。どうせ同じクラスにいるのだ。
「何してたの」。たった、それだけの疑問なのだから。