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悪夢、そして明くる明け

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私はむくりと起き上った。朝の光は瞼の裏を照らさず覚醒を促しもしなかった。素晴らしいとは言えないが良い目覚めだった。まったく鈍痛も動悸も冷汗もなかった。ついさっきまでの映像が鮮明すぎて、現在の現実があまりにもぼんやりとしていて、坂を転がり落ちるような速度で実像と虚像が交錯する。今までが、夢、反転した映像、薄暗い部屋は恋愛映画の始まりか、北欧の画家が描く色調。でも、幻想の世界は朝刊のフォトグラフィコンテストの大賞のようにヴィヴィッドで躍動感にあふれていて、現実のほうがよほど、『絵画的』現実に富んでいた。
 そして思い至る。ああ、悪夢を見ていたのだと。
 悪夢。……、悪夢? 一見あの光景にはわるいものなんて何一つ潜んでいないように見えた。しあわせなゆめ、それこそ私が望むような。

 そこには彼がいた。もう遥か昔、ジュラ紀の記憶、しかし決して風化しえぬ。
 おそらく森の中、あるいは海辺、大きなコテージかレストラン。吹き抜けの送風機の下の、大きな八人がけのテーブルに私の親友たちは座って、他愛もない話を楽しそうに交わして、宴を催している。
 彼はその端に所在なさげに座っていた。
 私が近寄って行くと友人らは親しげに私に声をかけ、私もそれに答える。私はテーブルを回りこんで彼に目を向ける。彼はようやくはにかむように私に笑顔を投げた――
 
 映像は鮮やかに流れていく。
 彼は私に、会えてうれしいというような旨のことを言った。終始彼は、ふてくされたような表情と、不器用な笑みを交互に繰り返しては、私の顔をのぞき込んだ。
 私はベッドの上で呆然としていた。現実だと思った。さっきまでの夢が、現実だと思っていた。その『現実』は、私にとって喜ばしいものだったはずなのに。『夢』は私を打ちのめした。だってそうだろう。なんて最低な『夢』だ。なんて恐ろしい『夢』だ。どうして私はあんなにひどい、どうしようもない『夢』を見てしまったんだろう。
 どうしてまだ、私はあんな夢を見られるのだろう。

 頭では最低だ最低だと嘆きながらも、私の心を満たしているのは薄い膜のように広がった多幸感だった。
 私は漸く立ち上がった。壁に掛かった時計を見ると、普段の起床時間よりも少し早い。私はカフェオレを作ることにした。と、いうよりも、朝一番にするのがほぼ日課になってしまっているので、自然に手が動くのだ。
 ペールグレイの部屋にミルクの柔らかな押しつけがましさとコーヒーの香ばしい謙虚さが広がり混ざり合う。できあがったカフェオレを大きな広口マグに注いだ。
 液面は静かで、底が見通せそうになかった。ましてや、その表面に何かが浮かんでくることなど、何があってもないように思えた。

 テーブルにマグをおいて、椅子に軽く腰掛けた。マグを持ち上げようとしたとき、私を二度目の絶望感が襲った。私は顔を両手で覆った。
 なんてことだ。
 夢の中の映像は流れたそばから消えていってしまう。私はもう夢の内容の正味半分も覚えていなかった。必死に記憶の糸をたぐり寄せるが、そのたびに夢の片鱗は私をあざ笑うかのように手をすり抜けていってしまう。幻想の世界の鮮やかな色調は、もやがかかったようによく思い出せなかった。なんてことだ。こんなに最低な夢なのに、忘れたくないのか。ばかみたいに、追いかけてばかりいる。
 一つ、学習した。夢は失われる。
 う、とうめき声が漏れた。涙は出なかった。手の覆いをはずして、目の前にまだカフェオレがあるのを見たときは少しがっかりした。温くなってしまったそれを、いつもの倍の早さで飲み干した。おいしくないわけではなかったが、もし仮にこれを作る前に戻れるとしたら、絶対に作らないはずだと誓えた。

 マグを流しに置いて、洗面所に向かう。鏡に向かい合うと、いつもの朝と寸分違わない風景が映った。目の下の隈はない。いつもよりとりたてて冴えないというわけでもない。 悪夢を見ても、カフェオレを作る気がしなくなっても、この世界は揺らぎもしない。
 身支度を簡単に済ませると戸締まりをして部屋を出た。大通りはいつもの通りの喧噪だった。私はバス停へと歩いた。バスが来るにはまだ時間があるはずだが、バス停には横田さんがいた。
「お早うございます」
 横田さんはこちらに気がついて挨拶した。彼女はいつもどおりぱきっとしたグレイのスーツに身を包んでいた。
「お早うございます」
 私は、にわかに夢のことを横田さんに話そうかと考えた。すると、私は言葉を発していた。

「夢を……悪夢を、見たんです」
 どんな夢ですか、と横田さんは聞いた。
「大昔に別れたこいびとが出てきました」
 それは最悪だ、と大げさに言って彼女は笑った。私も苦笑した。
「彼は……居心地が悪そうだった。でも、それは、別に特別なことじゃなかったんです」
 そうですか。静かな声だった。
 それきり私たちの間に会話はなかった。
 そうだ。それは、別に特別なことじゃなかった。彼はどこにいても何をしていてもそれらしくて、似合わなかった。くつろいでいて、居心地が悪そうだった。
 彼がすると何でも嘘っぽくて真摯だった。
 もう忘れていた。そんなことは。

 気がつくとバスがやってきて、私と横田さんはそれに乗り込んだ。私の降りるバス停に着くと、私は横田さんに目礼して、バスを降りた。
 そのまま、歩道を歩き出す。ふと、空が青く見えて、空を見上げた。そして唐突に思い出した。

 コテージのだろうか、吹き抜けの階段の踊り場。天井はガラス張りで、空が見えた。なぜか彼も私もとても急いでいた。話すことが山ほどあった。本当に山ほどあったのだ。私は言った。後で電話をかけ直すと。

 そうだ。私は夢の中で確かに彼に電話をかけ直すといったはずだ。
 その後、私たちがどうなったのかまでは思い出せなかった。ただ、かけ直した記憶はなかった。夢はそこで終わっていたのかもしれない。

 彼はまだ、私からの電話を待っているのだろうか?

 ふとそう思った。ばかげた考えだった。しかし、ばかげた考えであればあるほど、そのことだけが気にかかった。
 
 コテージなんてなかった。食事なんてしたことはなかった。彼が居心地悪そうにしたことなんてなかった。はにかむような笑みなんて浮かべなかった。私が彼のことをわかったためしなんてなかった。電話なんて頼まれてもかけ直さなかった。全部夢だった。それでも。それでも。唯一彼の存在だけが。

 彼がどうなったのかは知らない。
 おそらく彼は人を幸せにしたり、幸せにされたりする人種ではない。
 私もそう願える立場ではない。
 たぶん二度と会うこともない。
 それでもどうか笑ってほしいと思うのは間違っているのだろうか?

 これは愛だ。
 胸を灼くこの痛みさえも愛しいと思えるのなら。
作品名:悪夢、そして明くる明け 作家名:坂井