神の御加護
合図が出るや否や、バサバサと無機質な音を立てて、皆が解答用紙を裏返した。キリスト様も美しく解答用紙を表にすると、颯爽と学籍番号と姓名を綴った。今となると、彼の動作の一つ一つが華麗に思われてならなかった。それにならい、私も速やかに姓名を綴った。
さて、私が自身の力で事を済ませられるのはここまでである。あとは、キリスト様の導くままに。
実際、キリスト様は、快調に解答を重ねていった。迷うことなく解答を続けるその様子は、まるで神の声を聞いているかのようであった。
私は最早堂々とした気持ちで、横目で解答を記憶し、すらすらと自分の紙に書き殴った。嗚呼、今、私は、神の御加護を受けているのである。なんと幸福なことであろうか。さらに、問題の中盤に差し掛かる頃には、むしろ、周囲を憐れむようにすらなった。
「神の御加護を受けることを許されなかった、不幸な民よ!しかし恥じることはない!私の祈りが、君たちより、遙かに強かっただけのこと!嗚呼、私は幸福の為に、今にも卒倒してしまいそうだよ!」
薄ら笑いを浮かべて、私は自らの幸福に酔いしれていた。そしてキリスト様を崇めた。
しかし、幸福の絶頂にこそ、不幸はやってくるものだ。それは当然の運命のように、つまり必然のように、突然やってきた。
なんと、彼と目が合ってしまったのである。彼は一瞬呆気にとられていたが、私が非人道的行為に及んでいたことを悟ると、目を大きく見開き、また、充血させ、鬼のような形相で睨みつけてきた。そこに神の面影はなく、もはや閻魔大王の如き鋭い眼光であった。私は頬を一滴の汗が伝うのを感じた。
「なんということだ!神様に、全てを悟られてしまった!」
急に悪寒が走り、私はぶるぶると震えた。この世の終わりを感じた。絶対唯一のものだと信じたことが、法外な恐怖に転じたのだ。こんな不幸なこと、他にあるまい!
それでも、私は神を信じた。もしこの閻魔の顔を持った男が本当にキリスト様なら、必ずや救いの手を差し伸べてくださるはずだ、と。私は目を瞑り、祈った。
「嗚呼、私はあなた様を神様と崇めているのです。どうかそんな眼差しで私をご覧にならないで下さい!」
どのくらい目を閉じていたかは自分でもわからない。とにかく、精神が落ち着くまで、数秒間目を閉じていた。一つ大きな呼吸をしてから、私はおそるおそる瞼を持ち上げた。少し涙が溜まっていた。そして、私の最大限の慎重をもってして、キリスト様を、潤んだ目でちらりと見た。
その姿に、私は大きく失望した。なんと、腕で解答が見えぬように、紙を隠していたのだ。
そのせせこましい仕草に、私は今までに感じたことのない程の憤怒を感じた。
「つい先程まで神様と崇めていたこの男は、キリストでもなければメシアでもない!それどころか、人間でもない!これが人間の選択した行動だろうか?否!奴は下衆だ!畜生だ!悪魔め!!なんたる器の小ささだ…奴には度量という、人が当然備えているべきものが、決定的に欠如しておる!!糞野郎!!!嗚呼なんたることだ!やはり神なんて存在しなかったのだ。祈りという行為は、人類で最も意味を為さないものだ。お前は虫螻同然だ!!許せぬ!!!」
私は心底この男が憎くなった。一種の殺意すら芽生えた。奴の握る鉛筆すら憎くなった。そうしてなにも出来ぬまま、無情にも時計の針は歩を進めた。私は全身にぐったりと汗をかき、苛立ちを感じ続け、握り拳を見つめていた。なんたる惨めな様だ、と自らを憐れんだ。しかし、私が三次元にいる限り時は進み、それにあわせて、時計の針はまわる。
「試験終了五分前です。名前欄を確認して下さい。」
こちらの事情など一切興味がないかのように、教授らしき人が気だるそうに発音した。
もうどうすることも出来まい。絶望していた私は、力なく虫螻に目をやった。しかし、そこで私は再び神を信じることになった。なんと、彼は微笑みを浮かべ、目の端で私を確認し、解答を見やすくしていたのだ。
「なんと!奇跡は起こるものなのか!やはり、信じる者は救われるのですね、キリスト様!嗚呼、嗚呼!」
全身に力が漲り、目を輝かせ、すぐさま転写作業にとりかかった。
その矢先だった。
彼は突然紙を裏返し、意地悪く笑った。そして、ちらりと自らの解答用紙の裏に一瞥をくれた。彼の突然の行動の連続に驚きながらも、それにあわせて、私も紙切れを目で追った。するとそこには、大きな字が、鉛筆で書かれていた。
「エゴイストめ!」