偽善者賛歌14「話題性重視」
さて、今ひとかた、本筋をはずれた話を許してほしい。というのも、話のナレーターばかりつとめていては、自己がなくなってしまったようでつらいのである。たまにはナレーターも語りたいことがある。彼らの話をしているだけでなく、こちらにも意見はあって、それはまた哀憐や明石とは違う方向性に至るものだ。まあ、さほど時間はとらないだろうが、聞く気はないのだったらばとばして次にいってほしい。本気で本筋ではないので、とばしても話の整合性にかけたるところはさしてないであろう、と思う。
テーマをざっといえば、こういう話だ。
話題性重視の本を発表してはいけないだろうか?そして、出版サイドも販売サイドも、ブロックバスター方式に頼ってはいけないのだろうか?このナレーター男は2点からこの話題を取り上げてかまわないだろうか?
1
大衆に迎合するなというのは、相手をおもいやる言葉でもなんでもない。偽善にすらなれない。マニアックなはなしは金を得ることはできない。趣味でやれとあなたはいうのか?多くの人を楽しませる、それが職業で悪いのか?少なくとも職として芸術家、ライター、音楽家などなろうと思ったらば、人を楽しませることに力を注いでなにが悪いか?だって職業ではないか。自己を沈め、滅私奉公するがごとくではいけないのか。相手を楽しませるのが職業であり、自己満足するのは職業ではない。相手を拘束してそれをするなら(もちろん、絶対にだめというわけではなくて、相手を無視して、相手が喜んでいないのに)自己満足するならば、それはもはや金返せ、という話である。
2
あるいはまた、こうもとれる。
人々に自分を知ってもらいたい、そういう気概があるならば、自分の好きなものより自分のものを相手の好みに合わせなければおかしかろう?
それが趣味でなにが悪いか。
趣味ではありえないのか。
人を喜ばせてお金の取れるものを作ることを趣味としてはならないのか。
商業・である。同人ではない。同人でないから同人では許されない。同人をやりたいならやればいいし同人は楽しいけれど、職として金を取ろうというのに同人と同じ気持ちではいけないだろうと。
以上の1・2のいづれも偽善であるのだろうか。それとも偽善ではないのだろうか。僕は圧倒的に後者でなくてはならないと思う。資本主義の国に生きる国民がそれをできずにただひたすら、それを偽善と否定するならばアナーキストとなればいい。
国に生きるなら国に生きる考え方と責任を持たなくてはならない。表現の自由というのは国民を思いやる、もしくは帰属意識があるものこそが行使するべき権利であり、国を最初から転覆する来満々ならばそれはよくないのだ。勝手に非国民と決めつけてはいけないけれど、自分が非国民になるつもりだったら表現の自由はないのだ。それは国民の権利であってそれ以外ではない。
人を楽しませること。それが社会のエネルギー、潤滑油となってきた、そういう歴史を否定してはいけない。それを否定するならば「偽善」なき世を邁進していけばいい。
「ナレーターは『偽善』には反対ですが、日頃みなさまのいう『偽善』の定義は違います」ということだけ押さえてくれればうれしいと思っている。
作品名:偽善者賛歌14「話題性重視」 作家名:フレンドボーイ42