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愛の劇薬

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07



「今日の分は終わったから、もう上がっていいぞ」

 トムさんにそう言われたので、ヴァローナと俺は早めの解散となった。
 ロシア寿司のところでヴァローナと別れ、今は一人で帰る途中だ。路上喫煙禁止、という文字を見なかったことにして煙草を吸いながら道を歩く。最近は、一人でいることも少なくなった。誰かと一緒に行動する。それはどうにもむず痒い感覚で、まだ慣れない。けれども決して嫌いではない。

 ぼんやりと考え事をしながら歩いていたところで、脚に僅かばかりの衝撃があった。

「う、わっ!」
「お?」

 何の前触れも無く角から飛び出してきた少年。それは結構な勢いのまま自分にぶつかり、思い切り跳ね返されて尻餅をついた。こうしたことは特に珍しいことでもなく、勢いよく飛び出してきた側にも非があるとしておあいこということにしている。とりあえず、吸っていた煙草を地面に捨てて靴で踏み潰した。

「悪い、大丈夫か……ん?」

 そして一応、立たせてやろうと手を差し出す。こういう場合、自分の差し出した手を握り返す者は滅多にいないのだが、形式上の問題だ。けれど、こちらを見上げてくる顔に見覚えがあって、一瞬その手が止まった。こいつは、たしか…。

「静、雄…さん…!?」
「竜ヶ崎?」
「崎じゃなくて峰です…」

 驚きに目を見張っていた少年が、脱力したように呟く。竜ヶ峰、そうだ、竜ヶ峰帝人。セルティの友人で、ここんとこ臨也に付き纏われている可哀想な少年だ。こんなに細っこくて常識人の少年を捕まえて、あのノミ蟲は何をしようってのか。つい少年と一緒に臨也の存在を思い出してしまい、胸を満たす不愉快な思いを消し去るように息を吐き出す。

 そして深呼吸とばかりに息を吸い込んだ――…と同時に、


「あ?」


 ――ノミ蟲の臭いが、鼻についた。


 ちょうど竜ヶ峰が出てきた路地のほうから漂ってくる、腸を煮えくり返す気配。間違いない、あいつが、いやがる。


「逃げるなよ、帝人君」


 確信するのと、声が聞こえるの。どちらが早かっただろうか。

 暗がりから、真っ黒な服に身を包んだ折原臨也が姿を現した。…のだが、その姿は、予想していたのとは少し異なっていた。常の臨也との絶対的な違い。そう、いつもなら気色悪い笑みを浮かべているその顔が、何の表情も浮かべていなかったのだ。
 俺と臨也は、気に食わないことだが、結構長い付き合いだ。しかし、いつも余裕綽々としているこいつがこんな顔をしているのを見るのは初めてだった。俺と対しているのに見向きもせず、路上に座り込んだままの竜ヶ峰を見下ろしている。普段だったら、顔を見た瞬間に殴りかかっている。臨也もそうするだろう。けれども、そうならない。今日は何かがおかしい。

「い、ざや、さっ…」

 竜ヶ峰が、細く高い、悲鳴のような喘ぎ声をあげた。かたかたと、細い肩が震えている。そして後ろを振り返り臨也を目にすると、座り込んだままに後ずさった。竜ヶ峰の背が、俺の脚にぶつかる。尋常でない体の震えが、直接伝わってくる。竜ヶ峰は、臨也を、恐れている。
 臨也の右手には普段から愛用しているナイフが握られていて、その刃には―…、血が、ついていた。

「……てめえ、」

 よくよく見れば、竜ヶ峰の体の至るところから血が滲んでいた。頬も切れている。それは戯れのような傷ではなく、本気で相手を殺そうとしている傷だ。左肩と右腹部の傷から溢れる血は、衣服を真っ赤に染めている。座り込んでいたのと、竜ヶ峰が座っている場所がちょうど日陰になっていたこととで、気付くのが遅れた。
 犯人は明らかだ。臨也が、竜ヶ峰を、傷つけた。その目的は分からない。少なくとも俺の知る折原臨也は、自ら手を下すようなヤツではないからだ。誰かを傷つけるときは自分の代わりに他人を動かし、それを高みで見物する。それがあいつのやり方で、だからこそ俺は臨也が気に食わない。臨也が直接相手をするのは、俺だけだと思っていた。この在りえない状況からして、両者の間には何かがあったのだろう。そこには本来、他人が関与するべきではない。

 まあ、といっても。

 竜ヶ峰の相手は、あのノミ蟲である。
 俺は竜ヶ峰みたいな子供が嫌いではないし、こいつはセルティの友人だ。
 そしてノミ蟲と竜ヶ峰だったらどちらの味方をするかなど、聞かれるまでもない。

「いーざーやぁー、こんな細っこい兄ちゃんに絡んでるとは随分と暇みてえだなあ」
「…シズちゃん、俺は帝人君に用があるんだ。ちょっと引っ込んでてくれるかな」

 目が合うと、僅かに顔を歪める。普段と比べれば反応が薄いが、臨也のナイフの切っ先は、竜ヶ峰から俺へと変わった。

「池袋に来て、俺と顔を合わせた時点で、無理に決まってんだろうがああああああ!!!!」

 竜ヶ峰を避けて跳躍し、臨也の小奇麗な顔に向かって渾身の拳を叩き込む。――が、それは軽くかわされ、拳はアスファルトに突っ込んだ。がごおん、という奇妙な轟音とともに、アスファルトが砕ける。その破片が飛び散る箇所より更に奥へ逃げていた臨也は、忌々しげに舌打ちをするとナイフをしまった。

「俺さ、いまシズちゃんより帝人君にムカついてるんだよね。だからシズちゃんの相手してる労力ないわけ。時間の無駄だから、今日は帰るよ」

 予想だにしないあまりにもあっさりとした幕引きに、パルクールで壁を登っていく臨也をつい逃してしまう。まさか、ここで逃げるとは思ってもいなかったのだ。

「帝人君、これで終わりだと、思わないでね。今日終わりにできなかったことを後悔させてあげるよ」

 今日遭遇してから初めての笑みを、臨也が浮かべる。
 それは今まで見たどんなものより気味が悪いと思う、笑い方だった。

 臨也は言葉通り、すぐにその場から消え去った。もちろん今からでも追うことはできるが、傷だらけで様子のおかしい竜ヶ峰の放置していくことは、できなかった。 

「ちっ…、おい、平気か竜ヶ峰」

 拳についたアスファルトを払い、振り返り竜ヶ峰を見る。
 血を流しすぎたからか、臨也の捨て台詞か。どちらが原因かは分からないが、竜ヶ峰の顔色は先ほどまでとは比べ物にならないほど青ざめていてた。

「竜ヶ峰!」

 慌てて、けれど強すぎないように加減して、その両肩を掴む。
 右肩に触れた手は生温い血に塗れて、その量にぞっとする。この少年は、あまりにも脆弱だ。自分とは違いすぎる。早く医者に見せなければ、危ないかもしれない。

「あんのノミ蟲野郎が…!!」

 肺の奥底から怨嗟の声を吐き出すと、竜ヶ峰がびくりと大きく震えた。

「痛えだろうが、我慢してくれ。新羅のとこまで運んでやるから」

 細い体を抱えあげた。いとも簡単に持ち上がった竜ヶ峰を肩に担ぐが、軽すぎてどう力加減したらいいのか分からず手のやり場に困る。

「ふっ…う、え…」

 そうして困惑しているうちに、竜ヶ峰は急に泣き出した。涙を堪えようとしても堪えられない、そんな泣き方で。

作品名:愛の劇薬 作家名:神蒼