篠原 望むものは
そう、ぽつりと呟いた。誰もいない居間で。殺せば、すべてが終わるなどという、生易
しいものではない。きっと、後悔するだろう。長い長い時間のうち、ずっと、そのことを
後悔するだろう。なぜ、あの時、止めなかったのか・・・・そればかりを。
だが、殺せば、あの瞳は、もう誰も映さない。
もう、誰にも、あの笑顔は向けられない。
愚か過ぎる考えに、心底、寒気がした。独占欲で、理不尽な死に至らしめることに、こ
れほどの快感を覚えている。けれど、たぶん・・・いえ、絶対に、最後で、それはできな
いだろう。何より、それを察知したあの人は抵抗しないだろう。無抵抗に、すべてを投げ
出されたら、きっと。
「おかえり。」
階段の上から、声がして、それから降りてくる足音がする。聞こえたかもしれない。
「ただいま。」
「食事は? 」
「まだ。」
「じゃあ、軽いものでも作ろうか? 着替えてくれば? 」
「・・・でも、あなた、具合が悪かったんじゃないの? あなたの妹から連絡があったけ
ど。」
職場に、連絡が入った。一時帰宅していた、彼の妹が、兄は熱があって臥せっている様
子なので処置はした、と連絡を寄越したのだ。
私の言葉に、彼は、クスリと頬を歪めた。私が、妹の名前を呼ばないで、「あなたの妹
」なんて呼び方をしたからだ。そう呼ぶ時、私は少し怒っているのが常だ。
「まだ、そんなことを言うの? 結婚して、それでも、信じられない? もう重症だね?
それは。」
クスクスと、肩を震わせている。もともと、雄弁な人ではない。その人が、私に求婚を
した。妹には、愛情はあっても、それは恋情ではないと説明もしてくれた。この人の心を
形成するのに、私がとても重要であるということも、友人から教えてもらった。それでも
、ただ、妹と一緒にいたというだけで、嫉妬するのだ、自分は。
「重症なのよ。」
「うん、そうみたいだ。とりあえず、シャワーでも浴びてくれば、どう? 僕のほうは、
それほど大袈裟なことでもないんだよ。ちょっと微熱があったぐらいのことだから。」
妹は帰ったよ、と笑いつつ、台所に消える。微熱? そんなはずはない。妹は医療従事
者で、ちゃんと症状の説明は受けた。脱力感がひどくて、起き上がるのも辛そうだ、と言
ったのだ。追いかけて、冷蔵庫を開けている相手の背中に抱きついた。
「うそばっかり。」
「え? 」
「身体が熱いわ。それに、目が潤んでる。」
「・・・ああ、まあ、普通の人なら高熱だろうね。でも、慣れてるからさ、僕は。」
「いいから、ベッドに入って。」
「これぐらいはさせてよ。一日寝てばかりいたから、退屈なんだ。」
ぽんぽん、と、あやすように彼の胸に交差させた私の手を叩かれた。
「トーストと野菜スープぐらいでいい? もう少し入るんなら、オムレツぐらい。」
気にも留めないように、ごく普通に夜食のメニューを口にする。
「いいのっっ。」
「ん? お茶漬けとかのほうがいい? 」
「違うっっ。」
「・・・・シャワー浴びて、夜食食べたら、一緒に寝て欲しいんだけどね。・・・どうも
きみがいないと深くは眠れないみたいでさ。寝苦しいんだ。」
妹がクスリを処方して飲ませて、看病してくれたけど、うまく寝付けなくて、困ったと
呟かれた。
「愛ちゃんがね、『結婚したからって、惚気るなっっ。』って、笑ってたよ。・・・・だ
から、言うこと聞いてくれない? 奥さん。」
「・・・うん・・・・」
この人は、いつも、そんなふうに呼ばない。「奥さん」 と、呼ばれたことで、少し落
ち着いた。
「あなたは食べたの? 仕事のほうは? 」
「食べてない。水分は摂ったけど。仕事は、明日、午後からの予定だけ。」
「じゃあ、一緒に食べて、一緒に寝る? 」
「お相伴ぐらいならね。」
それほど広くない背中に、顔を埋めた。汗っぽい体臭を吸い込むと、もっと安心した。
「殺したいって思ったわ。」
「・・・・そう・・・」
「誰にも触らせたくないって思った。」
「・・・うん・・・レタスとたまねぎぐらいでいい?」
「トマトがあったら、それも欲しい。」
「あるよ。それ、スープにいれるんだよね? 」
「ええ。」
バタンと冷蔵庫が閉じられた。そして、材料をシンクに置いた。
「・・・殺してもいいよ・・・それで、きみが安らぐというのなら・・・・」
「後悔するわ。」
「・・・なら、どうしたい? 」
「わからないわ、わたしにも。」
「・・・好きにしていいよ・・・僕は、前にも、そう言った・・・」
できれば、このままでいけるとこまで、とは付け足したけどね、と、野菜を洗いながら
、彼は言う。とっくの昔に、彼は、すべてを無抵抗に自分に差し出したのだ。手際よく野
菜は切られて、小さな鍋に収まった。カチンと火が点けられる。バケットを適当に切って
、バターを溶かしたフライパンに置く。かりっとしたフランスパンが好きと言ったら、そ
れから、いつも、この方法でトーストされる。
「ジャムもいる? 」
「・・・うん・・・」
「オムレツも食べる? 」
「・・・ううん・・」
「着替えておいでよ。」
「・・いや・・・後で、一緒にシャワーを浴びるわ。」
「えーっと、高熱なんで、シャワーは勘弁してほしいんだけど。」
「・・・汗臭い人と、一緒に寝るのはイヤよ。」
はいはい、と彼の背中が小刻みに揺れる。
「珍しいね、甘えてるの?」
「そうかもしない。」
また背中が揺れる。こうしていると、とても安心だ。誰も、彼には触れていない。誰も
、彼の声を聞いていない。自分だけが独占している、この時間が一番好きだ。深夜近い時
間に、病人に夜食を作らせている。私のために、彼が調理をする。
「殺したい。」
「お好きにしてください。」
くくくくっ、と笑い声がする。彼が食器を用意するのにも、私は背中に張り付いたまま
だ。それでも邪魔だなんて言わない。背中は、どんどん汗ばんでいく。たぶん、熱が上が
っている。それでもやめない。
「いつか、殺すかもしれない。」
「・・・うん・・・できたよ。」
「殺さないでっ、て懇願してね。」
「・・・・うーん・・・時と場合によりけりかな。」
のんきに、食卓の用意をする彼は、さほど、深刻に受け取らない。暖かい食事が用意さ
れ、ふたりして、それを口にした。この時間は、他の誰にも作れない。「殺したい」 と
いう告白をできるのも、私だけだ。言葉の奥に隠されているものは、たぶん・・・・彼も
気付いているだろう。