微笑み
突然に、そう言われて驚かない人間はいるだろうか。いや、それが冗談とかいう雰囲気でなく、真剣に、極めて真摯な瞳で見詰められて告げられたら、反論できるだろうか。普通はできない。
とても穏やかな表情の人と、お見合いをした。大変優秀で、大人しい人だという前評判は、まさに、そのまんまの人だった。穏やかに微笑む人で、これは、とてもお買い得だと、付き合いをはじめた。
しかし、途中で、ふと気付いたのだ。これは、笑っているんじゃなくて、そういう風に筋肉を動かしているだけなんではないだろうか、と。コメディーの映画を見ても、けっして、声を立てて笑うことがないのを、不審に思った。パラエティなテレビ番組も、寄席も、演劇も、どれにも反応がない。……つまり、笑っていないということだ。
それを問いただしたら、先の言葉を述べられた。ぺこりと、と、お辞儀されて続けられたことは、たまたま、天界から、こちらに派遣されて、たまたま交通事故で羽根を傷つけて帰れなくなってしまったのだという。ついでに、羽根が無くなったら、天使の力もなくなったので、年まで取り始めたらしい。
「交通事故?」
「はい、ジェット機と接触して……その、落下したところが、雪山で自殺者と間違われてしまって……しばらく、更正施設だかなんだかに収容されていました。まあ、そんなわけで。」
どんなわけだ? それは。頭がおかしいのか、とも思ったが、とりあえず、おもしろいので、そのまま付き合うことにした。相手も、こんな半端物でよければ、と、承諾した。
感情がないというわけではないが、天使は、基本は無表情であるらしい。誰かが一緒であれば、ちゃんと、穏やかな微笑み顔というのを披露しているが、誰もいなければ、いきなり、無表情になる。それは、女性に対して失礼ではないのか、と、抗議したら、「隠さなくていいお方だから、よろしいじゃありませんか。」と、反論された。もちろん、日本の未来を憂えたり、世界平和なんてものを願ったりもしない。そういうことは、しない性質なのだそうだ。
「天使は、ただ、人間のためにあるというわけではありません。基本的には、地球全域を悪魔から守護するのが仕事です。」
「悪魔もいるの?」
「はあ、おりますよ。でも、あなたたちが考えているような醜悪なものではありませんけどね。」
「じゃあ、あっちの基本姿勢は?」
「善悪が混沌とした世界を築きたいというぐらいのことですかね。……ところで、お尋ねしたいことがあるのですが? よろしいですか?」
「はい、なんなりと。」
「お付き合いをして、そろそろ二年です。」
「あーねぇー、続いてるね。とても清い交際が。」
「すいません。」
「いえいえ。天使ですから。」
「ええ、天使なもので。それで、このまま続けると、結婚する必要があると思われるんですが、それは承諾して下さいますか?」
「えーっと、それは、俗に言うプロポーズをしています?」
「……んーそうなんでしょうか? わかりかねますけど。でも、人間社会のルールに従うとなれば、それが正しい順序だと思います。ただ、私、元来が天使なので、生殖行為とかできるかどうかまでは、わかりかねるんです。それでもよろしければ、お願いします。」
それを真顔で言ってる段階で、本当に天使なのかもしれないと納得できてしまう自分が悲しい。当人は、たぶん、事実を述べているだけなので、羞恥とかいうものとも無縁である。ごく普通のポロシャツに綿パンの男が、クルマの運転席で、こんなことを言い出している。かなり危ない光景なのではないだろうか。ちなみに、この天使、免許は持っている。
「それ、お試しとかないんですか?」
「お試し?」
「そう、その生殖行為とやらが、できるかどうかのお試し。」
「別に構いませんが、楽しいですか? 相手は私ですよ。」
いや、あんたじゃなければ、こんなストレートな交渉はしない。普通はいろいろと大人の駆け引きがあるものだ。そして、お試しの本意は、別にある。天使は、悪魔に陥落させられると、堕天使になって、二度と戻れないはずだ。
「あのね、例えば、純潔とか失うと問題はある?」
「どっちにしろ、戻れないので、今更、それは問題ではないでしょう。そういうことなら、あなただって、もし、私と結婚しないのに、純潔を失ったりすると、後々、問題になりませんか?」
「現代社会で、処女性みたいなものは、神格化してるから大丈夫。ていうか、もう純潔じゃないので、こっちも気にしなくていいの。」
「ああ、そうなんですか。」
ごく普通に感想を述べられたら、こちらのほうが恥ずかしい。無表情だし、思いやりの欠片も発揮しない天使は、「それでは、試してみましょう。」と、言い出した。
新婚旅行で教会が牛耳る国に出向き、そこの壁に描かれた天使たちを、ふたりして、眺めた。うっすらと、微笑む穏やかな表情の天使が、たくさんいる。
「これは嘘っぱちということ?」
「いえ、営業努力です。」
「ああ、なるほど。じゃあ、サービスしてもらうと、この顔になるわけ?」
「ええ、そういうことになりますね。」
だが、とても無表情だ。顔を取り繕う必要がないので、思いっきり気を抜いている結果らしい。腕なんか組んでみても、別段、なんの反応もなかったりする。慣れれば、それはそれで嬉しい。ベタベタしていても叱られないし、目移りされる心配もない。この無表情こそが、最大の愛情表現ということになる。
せっせと働き、定時に帰ってくる天使は、趣味すらない。だから、帰った途端、顔から表情が抜け落ちる。何をしようと無関心だ。風呂場を覗いていても、別段、恥ずかしがることもないし、ごく普通に身体を洗って湯船に浸かる。一緒に入っても、その行動から外れない。抓れば、「痛い」とか言うので、それなりの反応はある。天使は、とても無垢で汚れがない。人間社会での仕事は、かなり神経が疲れるらしく、それは、やめさせてしまった。主夫でもしいればいい、と、家にいることを勧めた。
実は、その無表情が可愛くて、誰にも見せたくないな、とか思ったというのは内緒だ。
「帰りたい?」
「さあ、どうだろう。迎えがないところをみると、帰って来なくてもいいと、見倣されているんでしょう。」
「死ぬと帰れる?」
「えーっと、……たぶん、失ったので……無理かと……。」
「はいはい、すいません、奪っちゃって。ごちそうさまです。」
「いえ、お粗末さまでした。」
もう少しお金が貯まったら、郊外に一戸建てを買おうと思う。天使をマンションの一室に拉致しているのは、かわいそうだと思うからだ。少しは緑に触れればいい。例え、この天使が、ただの人間で頭を打った痛い精神病患者だとしても、それを当人が隠しているだけだとしても、別にいいと、思っている。こんな珍しい夫は、他にはいない。やはり、なかなかお買い得な物件だったと思われる。