鮮血症候群
貴方は血が見たくなったときはありませんか?
例えばそう、少し苛々したり、少しうとうとしたとき。
本の些細な妄想が段々と肥大化していませんか?
紅い夢はみませんでしたか?
気をつけてください。もしかしたらそれは疾患かもしれません。
僕と全く、全く同じ。
『鮮血症候群』
今朝も奇妙に思えるほどの朝日だった。
今日も今日とて隣の席の女子が何か喚いている。
聞き耳を立てれば、どうやら最近不思議な精神病が流行しているらしい。名称は「鮮血症候群」。何かのタイトルかと思える位滑稽な名称だ。
症状はおおよそ血が吹き出る妄想から始まる。少し小指を挟んで血がでる、唇から血がでる、膝から血がでる。段々とそれはエスカレートしていき、最終的には発狂寸前にまでなるという。そこまで聞いて女子は廊下へと出て行ってしまった。
馬鹿らしい、たかが妄想じゃないか。僕はそう考え、本を開く。
そのとき、ページをめくる指を見てぎょっとした。
ほんのすこし、ほんの少しだけ血がでていたのだ。慌ててその指を舐める…しかし違和感を感じた。血特有の鉄のような味がない。はっ、として指を見ればなんともない。傷口もなければ血の匂いすらしない。きっと昨日、夜遅くまで勉強していたから疲れたのだろう。
いつも成績が優秀であることを、僕の母親は望んでいる。逆にいえばそれ以外は認めない。10位以下など取ってくればヒステリックに喚く。あまりにも耐えられないから趣味よりも勉強を優先させ、いつもテストで上位を取り続けている。親のご機嫌取りであり、鼓膜を保護しつづけている。いい加減飽き飽きしてきたが。
そういえば再来週はテストがあったようなきがする。その思考をかき消すように始業のチャイムが鳴った。
3時間目は珍しく自習だった。
どうやら世界史の谷原先生が急な用事で出張にいったそうだ。谷原先生はよく急な用事でどこかに出かけることが多い。大概他の先生がプリントを配ってやらせるが、今日は誰も手が空いていないそうだ。それを良いことにクラスの馬鹿な連中は好き勝手におしゃべりしている。今度の期末テストのことなど頭にないのだろうか?
羨ましい。何も考えずに自分の好きなことをして、喋って、馬鹿やっても許されるあいつ等が。
唇をかみ締めすぎて血が出そうになるほどに羨ましい。妬ましい。辛い思いをすればいいのに、出血したらどうせ弱い蟻のように這いずり回るだけなのに。
苛々して、ノートの上を滑らせていたシャーペンを握り締めた。あんまり強く握ったら血が滲むのかな。漫画でそういう表現があったなあ。そしたら少しは静かになるかな。はっ、と思考が妄想へと変貌していることに気がつき、そこでやめた。
ノートに若干赤い痕が見えたのは、きっと気のせいに違いない。血など出ていない。指からもなにからもでていない。怪我だってしていない。錯覚なんだ。そう自分に言い聞かせて、またノートの上にシャーペンを走らせた。
脳裏には今朝の「鮮血症候群」の文字が、僕を嘲笑うように踊っていた。
ようやくお昼だ。
この時間はにぎやかなぐらいが丁度良い。時々面白い話も聞ける。
いつもどおり窓際で母親手作りのお弁当箱を取り出す。少し女の子向けのかわいらしいお弁当箱なので、笑われてしまうが、僕はこのお弁当箱が気に入っていた。
母親は勉強のことさえ抜けば本当にいい母親だった。料理はおいしいし、いつも笑っているし、石鹸の香りがするし、とても綺麗だ。父親もいい嫁をもらった、と絶賛するほどに。僕もいい母親だ、と評価している…勉強のこと以外は。
今日のお弁当はハンバーグとミニトマト、サンドイッチにチーズ。トマトは僕の大好物だ。トマトを手づかみでとって、食べようとした。
しかし、食べる前にトマトは手から弁当箱に落下していた。それが僕の眼には血まみれの丸いものがぼちょ、と奇妙な音を立てて落下したようにしか見えなかった。思わず眼を擦ってもう一度見なおす。しかしそれは小さくてかわいらしい、赤色の野菜でしかなかった。
さっきから本当に疲れているのか、とトマトを口に放り込んで考える。先ほどから血の妄想にとりつかれたように幻覚が見える。少し想像をすれば血ばかりが思い浮かぶ。そこまで考えて嫌な予感が頭をよぎった。
いや、まさか。そんなことがあるわけが無い。それに何故こんなにも速く。
考えても切りがなかった。嫌な予感を振り切るためにハンバーグに箸を入れる。
どろ、とハンバーグから赤い液体が零れる。ケチャップではない。ケチャップにしては粘度が足りない。恐る恐る真っ赤な液体をこぼす肉塊を口に入れる。…ただのハンバーグだ。冷凍品を暖めただけの、おいしいハンバーグだ。
しかしもう、僕にそれを食べきる余力は残っていなかった。
そして血の妄想と幻覚に襲われながらどうにか放課後まで耐え切った。
僕は帰宅部だった。すぐに帰って、あったかい布団にもぐろう。そうしたらきっとこの悪い妄想も晴れる。