あるオフィス5階の日常
脇に積み上がる『やることファイル』の山を更に一段高くして、四十台目前の男が呟いた。すっきりと刈り上げられた白髪の混ざる髪は、幸い量に悩まされてはいない。一息代わりにノンフレームの眼鏡を拭いてかけ直すと、ついでにファイルの山の歪みも直す。
「人間やめたくなりますよね~」
からからと満面で笑うのはその隣の席の三十台半ばの男。黒縁眼鏡に茶の短髪をワックスで作り上げた髪型が実際の年齢より若く見せる。自称二十五歳で騙される人もいるのは、よく飛び出す柔軟すぎる言動もだが、童顔ともとれる顔も要因と思われる。
「それいいね」
その斜め右横の二人より少し大きな席に座るのは五十台前半の男。ロマンスグレイの頭髪を伸び放題にしてにこにこ笑う翁の能面のような顔は威厳を全く感じさせない。電車&エレベーターの利用者の多い職場で数少ない自転車&階段派。クーラーのよく効いた室内で愛用の扇子を煽いでいる。
「みんなで別の生き物になっちゃおうか」
子供が遊びを決めたと楽しそうに翁が提案した。とっとと仕事を片付けたい人間には余計な気遣い。いっそ現実逃避したい人間には渡りに船。ファイルが腕を組むとうーんと首を捻りはじめ、童顔は両手を頭の後ろに背もたれに体重を預ける。翁は、ぱたぱたと手は休めずに右斜め上へ視線を泳がす。
「そうだなぁ…クモになりたいかも」
ファイルがぽつりと言った。
「雲っすか?」
天井を指す童顔に対して、
「いや、蜘蛛」
指先をそれに模してデスクの上を十本足の蜘蛛が歩く。
「マニアックだねぇ」
「そうですか? そんなことないと思うけどなぁ」
理解してもらえないのを不思議そうにファイルは首を傾げた。
「ああ、8本も足…いや腕か? ありますしね」
「そうそう、今の俺らにうってつけ」
「腕だけならボクも賛成っす」
意図を察した童顔が我先にと手を挙げる。
「どこまで仕事人間なんだい、君たちは…」
せっかく気分転換にと思った発案も仕事に繋げられて呆れる翁。そんなつもりじゃないとファイルが苦笑しながら手で否定する。
「何だ、違うんですか」
真に受けていた童顔は目を丸くしている。
「自分で一軒家も建てられるし、自給自足だけど旅行もし放題だし。何より」
TRRRRR…
嬉々と想像を膨らませる言葉を遮ったのは無感情な電話の声だった。
TRRRRR…
2コール目まで誰も動かず。
TRRRR
3コール目の五分の四で童顔が受話器を上げて、通話ボタンを押す。常套文句は明るくトーンも少し高い。会話の内容から取った本人宛の電話ではないようだと察して、ファイルが顔を歪めた。
「八本の腕全部で耳を塞ぎたいです」
「Kさん、電話入りましたよ。Oサマから」
「世の中そんなに甘くはないね」
ファイルの予感的中。明白な苦い顔をする。それに童顔と翁は、お気の毒、と目配せをした。
「はいはい。4倍動かしてがんばりますよ」
盛大な溜息をひとつ吐いて、爽やかに作り替えた笑顔で受話器に手を伸ばした。
作品名:あるオフィス5階の日常 作家名:らんげお