ダークネス-紅-
第15回 魔天72柱マルバス
アリスは開いたエレベーターを飛び出し、愁斗の待つ部屋に向かって廊下を駆けた。
いったい主人の身になにが起きたのか?
玄関の鍵を開け靴も脱がずに、アリスは迷うことなく愁斗のいる部屋に駆けつけた。
いつも決して点けない明かりを点け、アリスは絶句した。
見開いた蒼眼に映し出される愁斗の姿。床に倒れ口から大量の血を吐いている。
もしかしたらという恐怖がアリスの胸を締め付ける。
血の海に横顔を付ける愁斗の頭を胸に抱き、魂の底からアリスは絶叫した。
「愁斗様!」
彼女がこれほどまでに叫んだことが今まであっただろうか?
「愁斗様、しっかりしてくださいませ!」
アリスの手に伝わる弱々しい心臓の鼓動。呼吸もとても弱々しくなっている。
「お許しください」
メイド服に付いているエプロンを愁斗の口の中に突っ込み、中に溜まっていた血を掻き出す。
そして、愁斗を横に寝かせると、アリスは小さな口を大きく開いて口付けをした。
愁斗の瞼が痙攣するように微かに動いた。
「愁斗様!」
急に愁斗は咳き込み、黒い血の塊を床に吐いた。
アリスは愁斗を胸に抱き、その顔を覗きこみながら背中を擦った。
再び咳き込んだ愁斗は血を吐いて、口元を袖口で拭いアリスの瞳を見る。
「大丈夫、死にはしないさ」
「愁斗様!」
アリスは愁斗の目覚めに歓喜した。涙を出したかったが、涙腺がなくて泣けなかった。
蒼ざめた顔をした愁斗は立ち上がろうとしていた。
「肺や胃を酷くやられたらしい」
「安静にしてくださいませ」
「アリス、肩を貸せ」
不安そうな顔をしてアリスは頷いた。主人の命令は絶対だった。
ずっしりとアリスの肩に圧し掛かる愁斗の体重。立つこともままならず、どうしても全てをアリスに預けてしまうのだ。そんな躰にもかかわらず愁斗は行こうとしていた。
「病院に行く」
その言葉を聞いてアリスは胸を撫で下ろしたが、愁斗は言葉を続けた。
「マルバス魔法病院だ」
「なんとおっしゃいましてございますか?」
その病院が悪徳病院だということはアリスも承知していた。
「僕の治療のためじゃない、その場所に用事がある」
「承知いたしました。タクシーはすでにマンションの前に待機させてございます」
血を吐いている愁斗を見つけたときに、アリスは電脳からタクシー会社に電話を入れてあったのだ。救急車ではなくタクシーを呼んだのは、愁斗が表の人間ではなく、裏に属する人間だからだ。
玄関を出てから愁斗を連れて歩く廊下をアリスはいつも以上に長く感じていた。
エレベーターで一階に降りる中、アリスは愁斗の顔を覗き込み、自分の行動が正しいのか自問自答してしまった。
一刻も早く正規の病院に運ぶべきではないか?
幸いこの近くには帝都随一の帝都病院がある。
けれど、アリスにとって愁斗の命令は絶対だった。
ロビーを出ると、マンションの目の前にはタクシーが待機していた。
すぐにタクシーに乗り込みアリスが行き先を告げる。
「帝都病院へ」
アリスは鉄の主従関係を破った。
しかし、それを弱々しい声で愁斗が覆す。
「マルバス魔法病院へ頼む」
もう主人に従うしかないとアリスは決意した。
「規定の三倍お支払いいたしますので、急いでくださいませ」
「夜だから何キロでも出してやるぜ」
タクシーの運ちゃんは徐行なしで、床が抜けるほどにアクセルを踏んだ。
タイヤの焦げるに臭いを後方に残しながら、タクシーは住宅街を駆け抜ける。
帝都で一流のタクシー運転手ともならば、そのドライビングテクニックはF1レーサー以上、ドライビング専門のスタントマン以上だ。
スピードメーターは大通りに入ったときには一八〇キロを越えていた。
マドウ区の魔導街に入ってからは時速を落としたが、それでもタイヤは悲鳴をあげていた。
前からなにか飛び出してきたみたいな急ブレーキが掛かった。
「ついたぜ……けどよ、病院がどっかいっちまってるぜ?」
運転手は口をぽかんと開けて窓の外を見ていた。
アリスも慌てて窓の外を見た。
すると、そこにあるはずの病院がないのだ。スプーンで掬われたように、病院の真ん中が綺麗に抜けていた。残っているのは外壁と、室外になっていしまった一部の室内だ。
タクシー料金を払い、アリスは愁斗を抱えてタクシーを降りた。
抱きかかえられていたシ愁斗が力なく地面に膝を付く。
「……手がかりが失われた」
マルバス院長の姿もない。
あの院長に送り込まれたあの空間に残してきた紫苑。
核を壊され〈暴走〉し、内部の〈闇〉を世界に解き放ってしまった。
あの場所に残っていた秋葉蘭魔は?
鍵を握っているはずのマルバスがいないのではわかりようがない。
病院が消失してしまったことから、当たり前の話だがなにかの力が働いたことはわかる。
蘭魔が破壊したのか?
それともあの空間で起きた出来事が引き起こしたのか?
愁斗の鼻が微かに感じた臭い。
魔導街の臭いに混ざってしまってわかりづらいが、この胸を焼く瘴気の香は〈闇〉だ。
愁斗は自分たちに近づいてくる気配を感じて振り返った。
「マルバス院長!」
そこに立っていたのは獅子の頭部を持ったマルバス院長だった。
「わしになにか用かの? 生憎、病院はあの有様じゃがの」
「いったいなにがあった?」
愁斗は藁をも掴む思いで尋ねた。
マルバスと愁斗が顔を合わせたのは、このときがはじめて。だが、マルバスの眼は愁斗の黒瞳を射抜き、その正体を悟ったようであった。
「おまえたちのせいで、どえらい目に遭ったわい」
愁斗はその言葉にハッとした。まさかこんなところで、正体がバレるとは思ってもみなかったのだ。
押し黙る愁斗にマルバスは牙を覗かせて笑いかけた。
「伊達に長生きはしておらんよ」
「なにがあったのか訊かせていただきたい」
真摯な瞳で愁斗は相手を見据え、マルバスは快く頷いた。
「おまえさんと?金剛?をわしの〈虫籠〉に入れたあと、恐ろしい魔気を纏った男が現れて〈虫籠〉の中に勝手に入って行きおった。
〈虫籠〉は見た目はただの虫籠と変わらんのだが、中に入ると別次元だ。だがな、別次元といっても、こっちの世界にある虫籠と同じモノには変わりない。一つでありながら、別次元に同時に存在しておる。つまりだな、おまえさんたちがあっちでなにかをやらかしてくれたおかげ、こっちの世界に飛び火したということじゃな。
突然〈虫篭〉が大爆発して中から黒いなにかが出てきて、そりゃ大変だったんだが、あの男が簡単に片付けてしまいおった。それでも被害は見ての通り――ん?」
マルバスが長々と話している途中で、愁斗は意識を失っていたのだ。
アリスは懇願する眼つきでマルバスを見つめていた。
「愁斗様をお助けくださいませんか?」
悪魔呼ばわりされることもある医師に救いを求める他なかった。
「よかろう、代償はそれなりに高くつくぞ」
マルバスは低い笑いを発した。
作品名:ダークネス-紅- 作家名:秋月あきら(秋月瑛)