約束
ただ一つの約束。
この手は君をつなぎ止めるためにあるはずだったんだ。
2月。寒い夜、地下鉄のホームに立った君と僕。僕はマフラーを口元が隠れるように巻いて、寒さを
凌ごうとしていた。そんな僕とは対照的に、君は寒さをあまり感じないのか、マフラーなんて身につ
けず、コートを羽織るだけ。
いつも出かけようと誘ってくれるのは君。二つ返事でそれに従う僕。他愛のない会話と、他愛のない
じゃれあいと。それがどうしようもなく楽しくて、僕は君のそばにいる。それだけでよかった。
僕らの近くに立って電車を待っている女子高校生の手には、『St. Valentine's Day』という文字
列が含まれたおしゃれな紙袋。今日がバレンタインだという事に気づいた。
−−今日、バレンタインなんだね
紙袋へ視線を向けたまま、僕は彼に言った。
僕の視線の先を追った彼は、なぜ僕がそんな事を言い出したのかを納得したように頷いた。そして
少し微笑む。その笑みがどこか悲しそうに見えたのは僕の気のせいだったのだろうか。
列車の到着を告げるアナウンスがホームに響く。それはいつもと同じで、何か特別な出来事を告げる
ものではない。電車のライトが視界に入った。もうすぐ電車が到着する。僕は何となく彼へと視線を
向けた。
でも
そこに彼の姿は無くて
列車は僕の目の前で急ブレーキを踏んだ。
嫌な摩擦音が地下の空間に鳴り響く。
−−怖いのかよ。しかたねーな。ほら、手。離すなよ。約束な。
いつだかの夏の日。小学生くらいだったのだろうか。もっと前?もしかしたらもう中学生だったかも
しれない。汗で体に張り付くTシャツが、気持ち悪かった事だけはよく覚えている。
お化け屋敷に入ろうと僕の手を引く君。汗で濡れて、少し冷たい手。でも確かにそこにある温もりが、
僕を勇気付けてくれた。
「手、絶対話すなよ。約束な」
そういって固く握りしめた手。それを同じく固く握り返した僕。
どこの遊園地での話かも覚えていない。僕と君以外に誰かがいたのかも定かではない。ただ鮮明に
覚えているのは君の声と君のぬくもり。そして、約束。
どうしてこんな事を思い出したのか。今まで忘れていたのに。
走馬灯?白昼夢?
フラッシュバックする映像。
何がなんだか分からない。でも、ただ一つだけはっきりとしている。
約束。
バタバタと人が近づいてくる。誰かがよくわからないコトを叫んで。僕はそれをどこか遠くに聞いていた。
プラットフォームの冷たい床に座り込んだままの僕。
過呼吸気味に息を吸いながら、嘘だと声にならない声を出して。
苦しい
胸が痛い
どうして
どうして
この手は君の手を握るためにあるはずなのに。
レスキュー隊員だろうか。制服を着た男が僕に声をかけてきた。放心状態の僕は、ただ一点を見つめるだけ。
冷たい鉄の箱がそこにはあって。でも君の姿はなくて。
どこに…どこにいるの?
どこ?どこに…どこに…
喘ぐように息をする僕を見つめる幾多の目。でもそんなコトはどうでもよくて。
約束したのに
どうして
僕は
絶対離すなよ。約束な。
どうして…
目頭が熱い。壁に強く頭をぶつけたような痛みがして。どうしようもないくらいに喉が渇いた。本当に
悲しい時、本当に驚いた時、人は声をあげる事ができないんだと、心のどこかで考えていた。
君の名前を叫びたいのに。どうしてと声をあげたのに、それを実行してくれない僕の身体。
君の温もりを感じたいのに、僕の手はごつごつとした点字ブロックの冷たさと堅さを伝えるだけだった。