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俺と彼女と親父の名前

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俺の父親は女ったらしだった。自分よりひとまわりも若い女を好きになる。そうしておいて必ず自分の物にする。あんなじじぃに籠落される女も女であると思うが、手を出す親父も親父であった。

親父が二度目の結婚をした、女に遊びで手を出すことはしていたが、結婚までしたのは初めてだった。つまりは俺にふたりめの母親ができたわけだ。親父から結婚の話を聞いたときに、それはなんとお気の毒に、とまだ見たこともない女性の、母親になるのであろう女性の、将来を憂えんだ。それと同時に、よっぽど美しい女性なのだろうな、とも思った。

そうして逢ってみると、彼女はやはり恐ろしく魅力的で、それでいて若かったのだった。
俺はぼぅっと、おかあさん、と唇を動かした。何か違う感じがして、声帯を震わせることはしなかった。
おかあさん、の五文字は、俺の脳裏の遠いどこかに消えた。

それは、そう。俺が15才の時だった。



その女性はやはり若く、魅力的だった。本当に本当に魅力的だった。親父が手元に置いておきたくなる気持ちもわかった。
笑顔の美しく、賢明で、穏やかな女性であった。俺は彼女を尊敬すらしたが、ただひとつ気に食わないのは、彼女が親父を旦那として選んだことであった。それだけが気に食わないのであった。親父が彼女を見つけなければ出逢えなかった俺なのに、どこまでも身勝手であった。



俺は彼女のことをおかあさんとは呼べなかった、呼ばなかった。呼んでしまったら俺の大事なものが折れると思った。こんなに歳の近いあなたを、おかあさんとは、呼びづらいのです、堪忍してください、と俺は彼女に苦笑して言った。彼女はどこか寂しげな影を瞳に落としながらも、そうね、しかたないわよね、と微笑んだ。



18才の時だった。親父の悪い癖が出た。俺とさほど歳の変わらない女に手を出し、そうして入れ込んだ。その女がいけなかった。親父の財産を奪えるだけ奪って逃げた。馬鹿な親父は女を探して、消えた。

しかし俺は冷静であった。いつかこんな日が来るのではないかと予感していた所為もある。そして親父のことを実はとっくの昔に見限っていた所為でもあった。

自分とふたまわりも違う女に手を出す不埒な男、どう成敗してくれよう!

気になったのは残された彼女のことだけだった。
可哀相に、なんて可哀相に、こんなくだらない男を愛したばっかりに、可哀相に。俺は可哀相に、を繰り返した。しかしいちばん可哀相なのは俺ではないかと考えるようになった。彼女を愛した、しかし彼女は親父を愛した。あれほどにくだらない親父を。
それに気付いたとき、俺の心の何かが折れた、至極大切にしていた何かが、確かに、音を立てて、折れた。





俺は親父のいなくなった寝室に入った。そこには彼女がいた。俺はひとり泣いている彼女に寄り添った。彼女は涙目で気丈に振る舞った、あぁ、なんて馬鹿なヒト、くだらないヒト、こんな可愛い奥さんがいるのにね。

その笑顔を見たとき、俺の加虐心がちらりと、顔を出した。それは折れた何かがせき止めていた感情の濁流、そんなようなものの一端なのではあるまいか、などと心中俺は考察したが、そんなことは仕舞にはどうでも良くなった。

あぁ、そうですね、そうだよおかあさん。

俺は初めて彼女をおかあさんと呼んだ。彼女の丸い大きな瞳がみるみる澄んだ。

その隙に、狡猾な俺は彼女の唇を奪った。親父のいなくなった寝室で、彼女を押し倒した、そうして目をつぶった。



彼女が小さな声で何か呟いた。閉じた俺の視界に、その単語が悲しく響いて、それから俺は思考を停止した。行為だけに集中した。そうして俺は、泣いていたんだ。









(あなたの零した、最後の言葉は、あのくそったれの名前だったよ)



作品名:俺と彼女と親父の名前 作家名:ノミヤ