オリオン座を見た日
かこっ、かこっ、という革靴の軽快な音が夜に響いて、真っ暗な空に抜けていった。水の中でできた泡が勢いよく浮き上がるように、抜けていく。
かこっ、かこっ。
一登は、目前を見据えて、ただ走っていた。走ることに意味などなかったけれど、そうしなければ何もかもが台無しになってしまうように思ったからだ。一登にとって今日と言う日はそういう日なのだ。走って走って、駆けつけなければいけない日なのだ。
走って走って、掴みとれるのはほんの少し。お駄賃程度。それでもそれは、一登にとって何物にも代えがたい大切なものだった。それは形にできない。それは言葉にならない。それは手に持つことは不可である。
それでも走る。
そうしなければ死んでしまうような、息継ぎのできない金魚のようなばかばかしさで、一登はがむしゃらに走った。
落下したリンゴが緩やかに地面にぶつかり、ころころと音をたてる。暗闇にも鮮やかなその色は道行く人々の目を焼いた。その転がった一つのリンゴを拾い上げた女性が一人。走り去る一登の風に髪をなびかせてその背を目で追う。
一登は見る見るうちに見えなくなった。
可笑しい。女性はくすくすと笑い、やがて周囲を巻き込んで笑いの波が起こった。だって可笑しい。一登が抱えていたリンゴの大半は女性の傍を通り過ぎた時に落ちてしまって、彼の腕の中に残ったのはたった五つ。
それを後生大事に抱え込んで、かこっ、かこっ、と革靴の靴音も高く走っていく背はひどく滑稽だった。
一登にだってこれがどんなに滑稽なことかわかっていた。自分の走り去った背後で笑い声が起こることもわかっていて、だけど走る足を止めなかった。
やがて道は町から外れ、小高い山へと続くなだらかな坂道へと続く。その先にある大きな一本杉の下で待ち合わせ。ああ、見えてきた。
――見えてきた。
一登は抱え込んだリンゴを落とさないようにしながら走り続け、おーいと叫んだ。
おーい。
その先で待っている、四人の友人たちが振り向いて、各々呆れたような表情をしたり笑ったり、喜んだり、手を叩いたりしている。
一登は走る。走り続ける。
坂道を勢いよく駆けあがり、一個ずつリンゴを友人たちに向かって投げつけた。友人たちはみな慌てて手を伸ばし、リンゴを受け取ろうとする。一登はその友人たちの手の向こうに、澄み切った冬の空を見て、瞬くオリオン座の美しさに目を閉じて、笑った。