昔の私
そのうちの一つ、窓側の席に腰を下ろして、荷物を隣に置いた。混んでくるようなら網棚に上げようと思う。
行き先は特に決めていない。どこか適当な駅で降りて、その辺りをぶらぶらしようと思っていた。日帰りでもいいし、宿がありそうなら泊まっていってもいい。温泉でもあればもっといい。
たまにこうして休みを取っては一人で無計画な小旅行をするのが私のささやかな趣味だった。こういうのも一頃巷で言われていた「おひとりさま」とやらにあたるのだろうか。 別に旅行が好きというわけではないし、電車が好きというわけでもない。嫌いでもないが。
ただなんとなく、時々なんとなく羽を伸ばしたくなって、どこか遠くに行きたくなる。
今日は特にこれまでよりもさらに遠いところへ行ってみたくなって、昼までそのシートに座っていた。
出掛けに駅前のコンビニで買ったおにぎり二つと抹茶プリンが胃の中へ消えてから結構な時間が過ぎ、流れる景色も随分と目に優しい色調に変わってきた頃――
ふと目の前を見ると、ちいさな女の子が向かいの席に座っていた。
いつのまに乗ってきたのだろう。前の駅を出た時にこんな子はいただろうか。しばらく窓の外を眺めてぼんやりしていたから気づかなかったのかもしれない。
年の頃は七、八歳ぐらいか。どこかで見たような顔をしている気もするが、友人の子供にこんな娘はいなかったはずだ。
女の子は深い緑の座席にちょこんと座って私の方を静かに見ている。しかしその瞳は私ではなく、どこか遠い、たとえば別の世界の何かを見つめているようでもあった。
微妙な居心地の悪さを感じつつも席を移るのもどうかと思い、私は彼女から目をそらして再び窓の外を流れるやわらかな緑の風景を眺めることにした。
がたんごとん、という規則正しい音だけが相変わらず人のまばらな車内に響く。
痺れを切らしてちらりとその子の方を見て、私は目を見張った。
女の子は泣いていた。
声を上げず、歯を食いしばって、ただ大粒の涙だけをぽろぽろ零して泣いていた。
どうしよう。薄情かもしれないが下手に関わり合いになって迷惑を被るのはごめんだ。親は何をしているのか。近くにいないのか。もしかして他の乗客は私の連れだと思っているのだろうか。
しばし逡巡した後、私は腰を上げた。
そうして女の子の隣に座って肩をそっと抱き寄せ、頭を撫でてやることにした。
触れられたことでスイッチでも入ったかのように、彼女はぽつりぽつりと口を開いた。だがそれは「わたしがね」とか「ごめんなさい」とか「ママが」といった短い切れ端ばかりで、彼女が何故泣いているのかは結局分からないままだった。
私はその言葉のひとつひとつにただ頷いて、歳のわりに大人しい泣き方をするその子の細くやわらかい髪をひたすら撫で続けた。
女の子はなかなか泣き止まない。固く閉じられた瞼の下の目はおそらく白い兎の瞳が如く真っ赤に腫れていることだろう。
電車が止まった。駅に着いたのだ。
どこかで降りようという気はもうとっくに失せていた。少なくともこの子が泣き止むまでは、こうしていよう。ゆっくりと電車が動き出す。みるみる駅は遠ざかる。
女の子はひっくひっくとしゃくりあげ始めていた。ちいさな肩を抱いた腕にぎゅっと力を込める。弱弱しいかすかな泣き声とは裏腹に、彼女のやわらかな身体は子供らしい少し高めの体温と重みをしっかりと含んでいた。ああ、この子は昔の私に似ているんだ。
涙を拭おうとしてその頬に触れた。
「つめたい」
ぽつり、と鼻声で彼女は言った。
そうして慌てて離れようとした私の手をとって、自分の頬にそっと押し当てた。肌に直接触れたせいだろうか、それとも泣いているからか、彼女の頬とちいさな手は肩よりもずっと熱かった。
「つめたくて、きもちいい」
なるほど。この冷え性の手も役に立つことがあるんだな。
すんすんと鼻を鳴らし、さっきよりは穏やかに目を閉じて体重を預けてくる彼女の背中をさすりながら、私はそんなことを思っていた。
いつの間にか日は暮れかけていて、車内をオレンジの光がきれいに染め上げていた。