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特別な存在

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 月が居なくなった―――。無くなったとは言えないくらい忽然と無くなったので、居なくなったのだと表現する。

 何を馬鹿な、と思うだろうが、何故かはわからないが突然月が居なくなったのだ。
 誰かが破壊してしまったのかもしれない。それが誰か、などというのは誰にもわからない。ニュースでも状況が流されるだけで、学者も右往左往しているようだ。

 地球の一日が二十四時間だったのも、地軸の傾きが一定で四季があったのも、月の引力があればこそだったので、今は異常気象、季節の変動など、普通の生活を営めるような状況ではない。夜―――というものも一定周期でやってこないカオスな状態ではあるが―――は当然真っ暗闇だ。地軸が傾き始めているので、南極や北極の氷も溶け始め、海面はどんどん上昇している。

 月は地球の恋人だったのかもしれない。あるいは兄弟のようなものだったのかもしれない。
 月と地球の間に何があったのか、人間にわかるはずもない。

「この世の中はどうなるんだろうな」
 独りごちた。

 このような状況に陥るとパニックや暴動が起こるのかと思いきや、当初こそそういう動きがあったものの、変わることのないこの状況に学習性無力感とでもいうべき状態が地球全体を覆っている。
 インフラも気候変動が原因で以前のように完全というわけではないが破綻もせず、鉄道やバスも以前のように一分刻みの恐ろしいダイヤグラムではないが変わらず走っている。
 ただ、無力感だけが覆っている。

 俺は今まで、人並みに教育を受け、働き、いつの日か死を迎えるために生きてきた。
 ただ、突然、その前提を崩され、他の多くの人たちと同じように無気力が支配し、明日がどうなるかもわからず、仕事だけはなぜか行うという、普通の生活を強いられている。

 ただ、月が居なくなっただけで―――。
 毎日、仕事帰りに、空を見上げればそこにあった、ひっそりと輝く星がなくなっただけで―――。


 俺の田舎は山奥なので、この異常気象と海面上昇でも難を逃れ、親は無事だが、月が居なくなってから、どれだけの命が亡くなったのだろう。月が居なくなる前も、普通に命は毎日亡くなっていたのではあるが、この状況下では今つながっている人が、いつ居なくなるかなど誰にもわからないので、空白の時間ができると心に滑り込んでくる。
 地球にもし心があるのなら、同じような心境なのだろうか。
 最愛の月が居なくなって、途方に暮れているのが、人だけではないと思うと少しはこの空虚な心も和らぐのだが。


 毎日寝るときに、このまま世界が無くなるのではないかという、今では然もありぬ事象なので、どうすることもできるわけではないが、十代に経験した、あのささくれ立った心境を思い出す。



 毎日毎日、この月が居なくなったことによる影響が報道されているが、とうとうこの日が来たかと思う。
 引力バランスが崩れたおかげで、今まで地球にはぶつかる事のなかった隕石が地球に衝突する恐れがあると、繰り返し伝えるニュース。実際に衝突すれば、地球の生命体の九割は死滅するだろうとの予測まで付け加えて。
 もちろん、各国機関がそのような状況をそのままにしておくわけはなく、隕石をなんとか衝突しないように方法を議論しているようだが、世の中はこの異常な無気力感も手伝って、厭世の流れに加速している。
 当の俺も、このまま地球に隕石が衝突するのならすればいい。いつかは死ぬのだから、どうせだったらみんなと一緒に死ねるならその方が幸せなことじゃないかと思うくらいだ。

 悪あがきするくらいなら、やり残したことのないよう、今のこの心境や、思いを大事な人に伝えることくらいだ。
 「今まで、一緒にいてくれてありがとう」
 「今まで、たくさんケンカもしたけれど、それでも一番の友だちだったぜ」
 「ろくな親孝行もできなかったけど、親より先に死ぬことはなさそうだから、最後の親孝行に顔だけは見せに行くよ」

 世界中で、愛しい人が誰なのか、最後に一緒にいたい人は誰なのかという話題が普通に上り始めるころ、俺も、いろんな人に思いを伝えた。

 人間は戦争をやめることはないだろうと思っていたが、月が居なくなったおかげで、それだけはなくなってよかったかもな。
 地球がどうなるかわからないのでは、それどころではない。

 今まで、月明かりで見守ってくれた月に感謝しながら、終焉の時を待つというのも、今までの人類が経験できないことで、「ありがとう」と言いたい。
 でも、できれば戻ってきてほしいけど。

作品名:特別な存在 作家名:志木