ふしぎにっき
0.原点
こういってはなんだが、僕は小説投稿コミュニティに登録しているのが不思議なほど、活字が苦手だ。
小説を全世界に向けて発表している方々はおそらく昔から文章を書くことが得意だった方が多いのではないかと思われるが、僕は違う。
小学校四年生まで常に通知表は国語だけ「がんばりましょう」が三つも付いていた。
本など読書感想文を書くためにしか読んだことがなかった。
新聞も新聞屋が洗剤をくれなくなったので、母親が契約解除してしまい、二十年間は取っていない。
それくらい元々は活字が苦手だったのだが、数々の担任の先生方のご指導と、文庫本の素晴らしくリーズナブルな値段と大きさのおかげで、高校で恥をかかない程度の国語力は身につける事ができたが、いってしまえば僕の実力はその程度だ。
そんな僕が創作活動に携わるようになったのは十代後半からだ。
僕の進学した高校の図書館は映画雑誌、音楽雑誌、週刊誌など雑誌系が充実していたので週一で利用していた。
図書委員はとにかく文芸部所属率が高く、帰宅部の僕は文芸部に誘われることが度々あったが、僕が村上春樹を知らないと言うと、ひどく僕を非難して、彼らの方から勧誘を諦めてくれた。
だからに僕は村上春樹の名前を聞くだけでその時の思い出が蘇り、苦痛と恥ずかしさのあまりに、村上春樹を読む事ができない。
文芸部から嫌われてしまった僕だが、その代わり演劇部の友人からお声がかかった。
というのも人数の関係で廃部寸前の演劇部は、とにかくなんでもいいから、部員の水増しをしなければならなかった。
泣きつく友人Tに僕は学食のカツ丼と自販機のコーラで入部届けにサインをした。同じようにしても僕は生物部の部員にもなった。
そんなわけで一応高校三年間は演劇部に所属していたとなっているが、男手が必要な時くらいしか演劇部には顔を出したことがなく、思い出という思い出は無いに等しい。
僕の高校生活は勉強とアルバイトで終わり、なんとか大学に入学したわけだが、映像系の専門学校に進学したTとの友人関係は続き、ひょんなことからTの友人Mとも親しくなり、この辺りから僕の創作活動はスタートした。
2000年代半ばあたりから素人でも簡単に動画をアップロードすることができる動画サイトが注目を浴びて、TやMも映像なりアニメーションなりで動画を投稿し始めた。
脚本は手書きだったり、ワードで打ったり、その時の趣向により様々であったが、三人の中でタイピングが一番速くパソコンに慣れていた部外者の僕がパソコンで作る資料とTとMが書いた脚本をワードで作成する仕事を任された。
そして慣れてきたあたりで、僕も案を出すように言われて、次第に脚本にも関わるようになっていった。
これが僕の創作活動の始まりである。
次の章からその大学時代の創作活動とそれに関わる不可思議な体験の話を書いていこうと思う。