欲求不満/完璧なかたち
完璧な造りだ。君はタチバナのことをそう評価している。
たとえば、その背の羽の生えそうな骨組み、肉のつかない膝の丸みや、土踏まずが主張する足の平、淡泊ですっきりとした耳朶。タチバナにはピアスもマスカラも靴も必要ない。それらはタチバナの完璧なかたちを崩すだけだ。君はそこまで考えて、しかし言葉にはしないでいる。タチバナがそういったものに興味があるのを知っているし、そもそもそんなことはタチバナの自由なのもわかっている。
君とタチバナは幼稚園からの知り合いだ。世間には幼なじみとか家族のように親しいだとか、腐れ縁という表現もあるけれど、君からすればどれも当てはまらない。だって、君はタチバナの家族に会ったことがない。タチバナも君の家族のことなんてひとつも知らない。それに君はタチバナを友人だと思っていないから、知り合いというのが妥当だろう。
初めて見たときからずっとタチバナは美しいままだ。その造りに惹かれて、他を一切考えられない。
去年二人は大学生になった。気が付けば古びたアパートの019号室に二人で暮らしている。季節がひとつずつ過ぎるのを奇妙な気持ちで見送っていた。
中身なんてどうでもいい、と君は思わずにいられない。思考も性格も能力も小さなことだ。腹の中を覗いてしまったら、もうみんな一緒くたじゃないか。平等にグロテスクな内臓が詰まっている。
タチバナの前ではなにもかもが馬鹿らしい。薄くなめらかな瞼、細い首の折れる様、控えめに浮いたあばらの骨……君の意識は常にタチバナだけのものだ。
今も君はクリーム色のソファに腰掛けて、その意識泥棒の帰りを待っていた。遅いなあ、どこ行ってるんだ、本当に遅い、と、同じことを胸の内で繰り返す。
それもそのはずだった。タチバナは帰ってこない。わかってて、知らないふりの君。タチバナは帰ってこないよ、だって。
君はいきなり涙をこぼした。だって死んでしまった。ぼたぼたと涙が落ちていくだけで、他に音はない。
タチバナ。
君が思うことはどれも今さらだ。完璧なかたちをしていた、美しいと思っていた、タチバナに欲情したことがある、いつか罪を犯してしまう気がしてた、タチバナが女でも男でもよかった、タチバナならよかった、好きだよ。
君は、好きと言うまでに百年かかると云う。
だから死んじゃだめだなんて云う。
死んじゃ、いやだ。
タチバナを彼女と称するのには抵抗がある。小学生だった頃、タチバナが自分の性に違和を感じたからだ。そのときも君はどっちでもいいよ、と言った。
結局タチバナは選ぶのをやめた。女でも男でもなくて、そのどちらでもある。当時親からもらった可愛い名前で呼ばれるのを嫌がったので、君がそれをもじって名づけてやった、タチバナ。
恋愛対象としては女の子相手の方が圧倒的に多い。当然みたいに与えられる側にいるのが耐えられないと君に漏らしたことがある。タチバナの体つきはどう見ても女のものだから、男からすれば守るべき存在なのだろうね。君だってちょっとはそんなふうに思っている。
……もし、タチバナの恋愛対象の性を選べるとするなら、君はどっちでもいいと言っただろうか。
ずっとずっと、生きた分と変わらないくらい長く、タチバナだけを好きな君。生きてきた年月は果てしなく、けれど恋は一瞬のように思えた。
ひとしきりはおとなしく泣いてみせて、ただ涙は止まりそうにない。一度も触れなかった。指先にすら、触れたりしなかった。泣きながら、嗚咽を殺しきれなくなって、呼吸がままならなくなって、それでもタチバナの肌に想いを巡らせた。一緒に暮らして、何度か素肌を見たことがある。
同居といっても、君の住むアパートにタチバナがボストンバックひとつを持って訪ねてきて、住み着いてしまったのだ。君はタチバナが好きだ。欲もあった。妄想の中ではやましいこともひどいこともたくさんしたし、現実のタチバナを犯してしまう日がくると思っていた。そんな君を置いて、季節が過ぎる。嘘みたいに平和な日々だった。
君がフラストレーションを積み重ねるだけの甘ったるい生活は、タチバナがいなくなって終わりがくる。
結局君は罪を犯さないままだ。そして本当は、なんでもいいから踏み出したかったことを思い知る。触れてみたかった。
今となってはタチバナに犯せる罪さえない気がして、泣いたまま家を飛び出す。なにも見えない、なにも聞こえない。景色も風も天気も気候も足音も、君とは関係ない世界のものだった。走る、どこへなどと考えていない。君の意識は常にタチバナだけのものだ。
君が足を止めたのは大きな木の下。ざわめく葉の影が土の上に落ちている。しゃがんでそれをやさしく撫でると、君は爪を立てて土を掘ろうとした。固く閉じた地面を必死に掻きわける。爪が割れた。もうだめだと思いながら腕を動かす。届かなければ、届かなければ。タチバナの眠る土に、君の涙が降って、染みた。
君の目が開くのは案外ゆっくりとした動作だった。少し滲んだ天井の模様。とんでもない夢を見た、と息を吐く。 タチバナの墓を掘り返す夢だ、君の最低な夢ナンバーワンに違いない。
ソファの上で半身を起こす。人の気配がなかった。タチバナはいないんだろう。まさか死んだからじゃない。最近新しくできた彼女にご執心だから、デートでもしているのだ。
幸せになるのならそれでいいと、君は思っている。これは秘密だけど、君とタチバナは妄想の中でも上手くいったことがない。初めから手に入るとは思わなかった。生産性のない恋だ。
君は言いそびれないように、ひとことだけ言おうと思った。百年後じゃだめだ。馬鹿な君はそんなことにやっと気づく。墓を掘り返すくらい好きだと言ったら、美しい眉や瞳や唇は、どんなふうに歪むだろう。笑ってくれたらいいなあ。
タチバナ、完璧なかたち。
君はタチバナとよく似た瞼をそっと下ろす。
作品名:欲求不満/完璧なかたち 作家名:こはな