地下鉄で
あわただしく人が行き交う中、帰り道を急ぐ私は、視線の端に奇妙なものを認めた。
・・・男の、顔だ。
何処にでもいそうな平凡な顔の男。ぎょっとしたのは首だけが浮いているように
見えたからだ。よく見れば通路の途中の壁の窪みに身体をうずめているようだ。
同じ配色の壁に挟まれるようになり、結果首だけが浮いているように見えたのだ。
とぼけた顔つきの男は目だけがくるくる動いている。
すると、すいっと手が壁から出てきた。―手招き、をしているのだろうか?
帰宅ラッシュ、響くアナウンス、喧噪。人は皆、そんな男を振り向いたりはしない。
足早に通り過ぎるだけだ。首と手の男はすごく落胆したような顔になった…が、
すぐもとの目をまわす素頓狂な顔に戻った。手招きをするような仕草をしたり、耳
打ちをするように口元に手を近づけたりしている。
さも 「お得ですよ」 とでも言うように。
発車のベルが鳴る。遠目に見ていた私も時間に追われる身だ。その場を離れようと
した。
その時。
会社員だろうか。さえない中年男性が壁の男にふらふらと、近づいていった。
そのまま壁の窪みに誘われるように首と手を前に出す。さっきと逆に身体だけが
壁から出て、まるで首と手だけがないようだ。
私は何故か目が離せなかった。中年男はそのまま動かない。喧噪も聞こえない。
しばらくして、
その身体は壁の窪みから抜け出した。それは、
それは
目をくるくると動かす、素頓狂な顔。手招きをしていた男の顔だった。中年男の
体に、その顔は当然のように付いている。
見間違いか? いや、顔立ちは普通だが、眼の動かし方は、間違いなく首だけ男
のほうだ。
思考が定まらない。私は無意識に歩き出したようだ。
嬉しそうに、本当に嬉しそうに男は、こちらを向き、私と目を合わせた。
手招きをした。
<終>