死してなお
『そろそろ本題に移ろう。私が何故、遺言ではなくここに手紙を書いたかだ。まずは最初に、君も予想しているだろう、私の飼っている猫のことだ。勿論、君に頼んだ内容には彼女の世話も含まれている。まさか、放っておいてはいないだろうね。君のことだ、動物なんて今まで気にも留めてなかっただろう。少し心配だ。あとは名前についてだけれど、実はまだ決めていなかったんだ。今の時代らしく、アントワネットとかはどうだろうと思っていたんだ。目も、異国人と似ていると思わないか?』
でも、アントワネットはねぇよ、と呟く。猫がこちらをちらりと見てきたような気がしたが、気のせいだろう。
『けれど、どうせ君はどんなに私が考え込んだ名前でも気に入らないだろう。だから、名前は好きに決めてあげて欲しい。
あと、言いたいのは君のことだ。』
俺か、と返事をするように言葉を呟く。名前は、後で決めてやらなければならない。それに、雌だったということも今初めて分かった。紙をもう少し広げて、読みやすく整える。
『私は、君に『私が住んでいた家を頼む。』と遺言状に書いたはずだ。実は君には言っていなかったのだが、この家は借家ではない。先日、親戚の方のご好意により、この家をいただいてしまった。』
俺は目を見開いた。驚いた、家なんて、あげてしまってもいいものなのか。金持ちの感覚は分からないと首をひねったところで、次の行の文が目に入り、思わず唖然とした。
『だから、この家は君にもらって欲しい。
最初から、そのつもりで家を頼むだなんて書いた。きっとこの手紙を読むまでに家で過ごした時間があるはずだ。もし、この家が気に入らなかったら、売って欲しい。あぁ、その時は猫も一緒に連れて行ってやってくれ。君は以外と寂しがりやだし、あの子とは気が合うはずだ。君もねこっぽいしね。』
そんなことはない、と首を振りたいのだが、その首が動かない。あまりのことに頭が固まってしまって、何を考えたらいいのか分からなくなってきた。この家が、俺のものに。そんな、そんなことがあって、いいのか。
頭はまだぐるぐると回り続けているが、目だけが別の意思を持っているかのように文字を追っていく。理解していないのに、頭の中にあいつ特有の字が入り込んで居座っていく。
『本当は、ここからが書きたいところで、これを家族に見られるのはいやだったからわざわざ手紙におこしたんだ。
私は、素晴らしい人生を過ごした。気付いたときには悪友がすでにいて、喧嘩したり、真剣に勝負をしたり、論議を交わしたり、私にはつまらないという感情とは無縁に生きてきた。君は、覚えているだろうか。初めて、道場に行った日…………。』
そこから長く続く内容には、昔の思い出が綴られていた。初めて出会った日、道場で俺に負かされたこと、すぐにやり返したこと、俺のお袋に惚れたときのこと。学び舎でのこと、二人で近所の屋台で食べながら話したこと。俺が進学せず働き出したくせに、勉学に努めていたことへの驚き、呆れ、尊敬の気持ち。
最後に、こう書かれていた。
『思っていたよりも長くなってしまったが、ここまで読んでくれてありがとう。本当に感謝する。けれど最後に、これだけは言わせて欲しい。
親友よ、君に出会えて、本当に良かった。君という人が親友であることを、私は死んだって誇りに持ち続けるよ。
今まで、ありがとうございました。』
最後まで読めなかった。気付いたらこの手は手紙を丸くつぶして、庭に投げてしまっていた。その手を力の限り握りしめて、体をその場でうずめた。
「くそっ、くそっ、何で、今さら、こんな時に、殊勝になりやがって。ちくしょう、ふざけるな。」
にゃあ、と鳴き声が聞こえてうずめていた顔を横にずらしてみると、猫がすぐそばでこちらを見上げていた。視線が合うと、猫は俺の足に擦り寄るように体をこすり付けてきて、またにゃあと鳴いた。
耐え切れなかった。固めていた拳を開いて、出来るだけ力を抜いて猫をなでる。先程から居ない誰かから隠そうとして隠し切れなかった涙が、濃い灰色の毛の上に落ち、せっかくのきれいな毛並みをつぶしてしまったが、俺はかまわずなで続けた。
猫をなでる手から伝わる温かさが、とても心地良かった。ごろごろと喉を鳴らす猫を見て、俺は目を細めた。情けない顔がさらに情けなくなっていることは百も承知だった。
誰が、この家を売るものか。おそらく俺は、何があってもこの家を離れることはないだろう。
しばらくして落ち着いてから、投げてしまった紙を拾い、元の場所に再び座ると、猫があぐらをかいた俺の足の間に乗ってきた。それからまた庭のほうを見つめ続ける猫を優しくなで、俺も猫と一緒に、庭のほうを見つめていた。