死してなお
友人が死んだ。にこやかにやわらかく笑う幼馴染ははやりの病であっけなく死んだ。
足元からざし、ざし、という砂を踏む音がする。黒い風貌の、俺の足を覆っている靴は、まだ新しく履きなれていないせいもあって、やけに硬い感触がした。やはり草鞋のほうが良かったかと、何気なしに呟く。皆、新しいもの、ましてや異国のもの何かには、人生に一度は何かしらの不満を言ってみるものだ、と先程の呟きに理由をつけた。
友人が死んだ。西原一喜、歳はまだ二十三だった。奴は生前なかなかの男前で、街角でお嬢さん方とおしゃべりにふけこんでいるのをよく目にしたものだった。確かに、外見は人のよさそうな面をして、姿勢といい、佇まいといい、しゃべり口調といい、どこか相手を信じ込ませてしまうような優男だったが、実際非常に賢く、しかも何か恐ろしいことがあっても物怖じするどころか高らかに笑い飛ばすような奴だった。つくづく、奴が詐欺師なんぞにならなくて良かったと思っている。だが、まあ、こうして死んでしまう運命だったのなら、詐欺師でも何でも好きな職に就いていたならそれでいいか、と今なら思えてしまうのだから、人の死とは怖ろしいものだ。
俺と奴は幼馴染だったが、その関係は実に分かり易かった。まだ竹刀をもって道場を走り回っていた頃から、『困ったときはあいつからせびれ。』という名文句がすでにお互いの約束事になっていた。だが奴の実家は近所でも有名な金持ちだったので、奴が俺に金の問題でからんでくることはなかった。俺のほうは、何度も奴に飯をおごらせた記憶は、まだ新しいのだが。
俺は、次々と通り過ぎていく真新しい西洋風の建物を横目に見ながら、黙々と歩いた。奴はいない。もう、この世にはいないのだ。もしももう一度会うことがあれば、それはあの世でだろう。逝った先が極楽浄土ではなく地獄だったとしても、にこやかに笑い続けているだろう友人の姿を頭に思い浮かべるたび、これから俺が向かう先にも、微笑んでいる奴がいるのではないかと思ってしまう自分に笑いたくなる。もういないのに。
ちきしょう、とかすれた声で呟く。思わず歯軋りをして力を入れた拍子に着流しのすそが翻ったが、口の中に黒ずんだもやのようなものが残っただけだった。
俺が向かっていたのは友人のかつて住んでいた家だった。友人の家族に受け渡された友人の遺言状に、俺へのことも書かれていたのだ。とはいっても書かれていた内容など一文で、しかも頼みごとだった。遺言状を見せられた際に、友人が家族へ綴った墨をちらみすると、しおらしく真面目だったというのに。別に、不満なわけではないが、無性に腹が立つ。
ようやく奴の借家にたどり着き、無遠慮に戸を開け放った。借家とはいっても友人の親戚の家から譲ってもらったもので、一介の学生が住むには立派過ぎる家だった。これでも小さい方を選んだのだと言っていたが、中は十分広い。眉をしかめて畳や壁、本などが仕舞われた棚をぐるりと睨むように見渡した後、手に持っていた小さな荷物をそこら辺に放り投げた。
畳の上に寝転がってみる。頭の中に、酒を飲んでどちらが先につぶれるか競い合ったり、ある学者の論文について自分の意見を述べては相手の根拠をからかったりしたときの風景が浮かんでは消えて、また別の記憶が浮かんでは消えた。きっと、こうして人間の頭は記憶を整理してくのだろうとぼんやり考えながら、しばらくそのまま頭の好きにさせておいた。無駄に力を入れて歩いていたから、精神的に疲れたのだ、とわざと誤った自己分析をして、俺はしばらく宙をみつめてどこかの世界をさまよった。
何もない。ここには、何もない。そんな言葉が突然現れた。ここ、というのが、今俺のいる現実のことなのか、それとも視線を漂わせている空間のことなのか、それとも俺の頭の中なのか皆目つかなかったが、ひたすらその言葉が文字となって頭の中を往復していた。それでもまだ、あいつの顔や過去の出来事の断片が、ちらついて仕方なかった。
何もない、何もない、ここには何もない。
夏の日に窓からつるしておいた風鈴が、風に吹かれて音を鳴らすように、ちりんちりんとその言葉が頭の中と口の中を埋め尽くして、気分が悪くなった。しまいに、記憶の中の奴がこちらに笑いかけてきた。気色悪いことこのうえない。
だるくて仕方のない体を持ち上げて状態を起こすと、しばらく自分が開けて入ってきた玄関の戸をみつめていた。立派な戸だ。隙間なく、風が少しくらい強く吹いたって風の進入を許しはしなさそうな、気難しい戸に見えた。それを見ながら何か忘れているような気がして首をひねる。何故俺はここに来たのか。何か用事があったような。何だっただろうかとぼんやりとしていると、耳に家のどこかの戸を開けたような、かたり、という音がした。
にゃあ。
同時に、呼びかけるような鳴き声を聞いて思い出す。そうだ、俺はあいつから頼み事をされて、この家に来たのだった。後ろを振り返ると、そちらの方へ続いている廊下から黒っぽい猫がひょいと顔を出した。少し離れていても分かる、大きな青い瞳がこちらをじっとみつめてくる。
にゃあ、と猫はもう一度鳴く。お前は誰だ、といっているのか、ご主人はどこだ、とでも言っているのだろうか。そう、この猫は、あいつが飼っていた猫だった。とはいっても、あいつが猫を拾って飼いだしたらしいのは、死んでから二週間ほど前だったようで、俺は初めてこの猫と対面した。あいつが拾ってきた猫だから、もっと小汚いと思っていたのだが、そうでもない。離れていてよく見えないが、遠目でも分かるきれいな目をしたこの猫が、薄汚れているようにはとても見えない。もっと傍で見てみたくなりひょいひょいと手を振ると、慣れているのかすぐに近くに寄ってきた。膝を示してみるが、それには何も答えず俺のまん前に座り、またにゃあと鳴いて俺を見上げた。
近くで見ると、毛の色が黒ではなく濃い灰色だということに気がついた。どこか不思議な雰囲気を持つ猫だと漠然と感じる。長めの毛にうもれて、赤いひもが首輪としてつけられていた。
「名前はあんのか。」
足元からざし、ざし、という砂を踏む音がする。黒い風貌の、俺の足を覆っている靴は、まだ新しく履きなれていないせいもあって、やけに硬い感触がした。やはり草鞋のほうが良かったかと、何気なしに呟く。皆、新しいもの、ましてや異国のもの何かには、人生に一度は何かしらの不満を言ってみるものだ、と先程の呟きに理由をつけた。
友人が死んだ。西原一喜、歳はまだ二十三だった。奴は生前なかなかの男前で、街角でお嬢さん方とおしゃべりにふけこんでいるのをよく目にしたものだった。確かに、外見は人のよさそうな面をして、姿勢といい、佇まいといい、しゃべり口調といい、どこか相手を信じ込ませてしまうような優男だったが、実際非常に賢く、しかも何か恐ろしいことがあっても物怖じするどころか高らかに笑い飛ばすような奴だった。つくづく、奴が詐欺師なんぞにならなくて良かったと思っている。だが、まあ、こうして死んでしまう運命だったのなら、詐欺師でも何でも好きな職に就いていたならそれでいいか、と今なら思えてしまうのだから、人の死とは怖ろしいものだ。
俺と奴は幼馴染だったが、その関係は実に分かり易かった。まだ竹刀をもって道場を走り回っていた頃から、『困ったときはあいつからせびれ。』という名文句がすでにお互いの約束事になっていた。だが奴の実家は近所でも有名な金持ちだったので、奴が俺に金の問題でからんでくることはなかった。俺のほうは、何度も奴に飯をおごらせた記憶は、まだ新しいのだが。
俺は、次々と通り過ぎていく真新しい西洋風の建物を横目に見ながら、黙々と歩いた。奴はいない。もう、この世にはいないのだ。もしももう一度会うことがあれば、それはあの世でだろう。逝った先が極楽浄土ではなく地獄だったとしても、にこやかに笑い続けているだろう友人の姿を頭に思い浮かべるたび、これから俺が向かう先にも、微笑んでいる奴がいるのではないかと思ってしまう自分に笑いたくなる。もういないのに。
ちきしょう、とかすれた声で呟く。思わず歯軋りをして力を入れた拍子に着流しのすそが翻ったが、口の中に黒ずんだもやのようなものが残っただけだった。
俺が向かっていたのは友人のかつて住んでいた家だった。友人の家族に受け渡された友人の遺言状に、俺へのことも書かれていたのだ。とはいっても書かれていた内容など一文で、しかも頼みごとだった。遺言状を見せられた際に、友人が家族へ綴った墨をちらみすると、しおらしく真面目だったというのに。別に、不満なわけではないが、無性に腹が立つ。
ようやく奴の借家にたどり着き、無遠慮に戸を開け放った。借家とはいっても友人の親戚の家から譲ってもらったもので、一介の学生が住むには立派過ぎる家だった。これでも小さい方を選んだのだと言っていたが、中は十分広い。眉をしかめて畳や壁、本などが仕舞われた棚をぐるりと睨むように見渡した後、手に持っていた小さな荷物をそこら辺に放り投げた。
畳の上に寝転がってみる。頭の中に、酒を飲んでどちらが先につぶれるか競い合ったり、ある学者の論文について自分の意見を述べては相手の根拠をからかったりしたときの風景が浮かんでは消えて、また別の記憶が浮かんでは消えた。きっと、こうして人間の頭は記憶を整理してくのだろうとぼんやり考えながら、しばらくそのまま頭の好きにさせておいた。無駄に力を入れて歩いていたから、精神的に疲れたのだ、とわざと誤った自己分析をして、俺はしばらく宙をみつめてどこかの世界をさまよった。
何もない。ここには、何もない。そんな言葉が突然現れた。ここ、というのが、今俺のいる現実のことなのか、それとも視線を漂わせている空間のことなのか、それとも俺の頭の中なのか皆目つかなかったが、ひたすらその言葉が文字となって頭の中を往復していた。それでもまだ、あいつの顔や過去の出来事の断片が、ちらついて仕方なかった。
何もない、何もない、ここには何もない。
夏の日に窓からつるしておいた風鈴が、風に吹かれて音を鳴らすように、ちりんちりんとその言葉が頭の中と口の中を埋め尽くして、気分が悪くなった。しまいに、記憶の中の奴がこちらに笑いかけてきた。気色悪いことこのうえない。
だるくて仕方のない体を持ち上げて状態を起こすと、しばらく自分が開けて入ってきた玄関の戸をみつめていた。立派な戸だ。隙間なく、風が少しくらい強く吹いたって風の進入を許しはしなさそうな、気難しい戸に見えた。それを見ながら何か忘れているような気がして首をひねる。何故俺はここに来たのか。何か用事があったような。何だっただろうかとぼんやりとしていると、耳に家のどこかの戸を開けたような、かたり、という音がした。
にゃあ。
同時に、呼びかけるような鳴き声を聞いて思い出す。そうだ、俺はあいつから頼み事をされて、この家に来たのだった。後ろを振り返ると、そちらの方へ続いている廊下から黒っぽい猫がひょいと顔を出した。少し離れていても分かる、大きな青い瞳がこちらをじっとみつめてくる。
にゃあ、と猫はもう一度鳴く。お前は誰だ、といっているのか、ご主人はどこだ、とでも言っているのだろうか。そう、この猫は、あいつが飼っていた猫だった。とはいっても、あいつが猫を拾って飼いだしたらしいのは、死んでから二週間ほど前だったようで、俺は初めてこの猫と対面した。あいつが拾ってきた猫だから、もっと小汚いと思っていたのだが、そうでもない。離れていてよく見えないが、遠目でも分かるきれいな目をしたこの猫が、薄汚れているようにはとても見えない。もっと傍で見てみたくなりひょいひょいと手を振ると、慣れているのかすぐに近くに寄ってきた。膝を示してみるが、それには何も答えず俺のまん前に座り、またにゃあと鳴いて俺を見上げた。
近くで見ると、毛の色が黒ではなく濃い灰色だということに気がついた。どこか不思議な雰囲気を持つ猫だと漠然と感じる。長めの毛にうもれて、赤いひもが首輪としてつけられていた。
「名前はあんのか。」