追って来る
彼が追ってくるんだ。
俺はただまるで自分の悪事を問われ、はたと思い出し吸い込まれる様に脳を掘り出し同時に駆け出すだけ。
馬鹿な事を言うなよ、逃げ出すんだ。
あの対峙した人の責める様な探る様な目から。
誰から逃げてるかなんて"彼"としか言いようがない。
「ハッハッハッ…」
ついてきている。後ろからひたひたと。のっぺらぼうの顔で両腕をぶらつかせ足の爪先から水が滴るように。
ひたひた、ひたひた。
「ハッハッ…!!うあっ!」
つまらない石ころに爪先が引っかかり宙を?いた。雨の後のアスファルトは少し焼けた匂いがする。
人に踏まれ犬に踏まれゴミを捨てられ唾を吐かれるアスファルトはとっくのとうに諦めたようなあり方で男を受け止めた。
固いアスファルトに叩きつけられ一瞬体の中のものが上に散らばり、頭の中も停止し細身の男は呻き掌をぎゅうと握る。
「うっ…ぐ、ハァ…」
そして掌に爪が食い込むまで握り締め、ドシンと拳を叩き付けた。自分が適わない事を知ったやるせなさを何度も叩きつける。
アスファルトはただ黙って傍観している。自分を打つ男を傍観者の冷たさで受け止めていた。
「誰だ…ッ!誰が」
倒れこんだままの男は両手をつきゆっくりと上半身を起こし、自分の肩越しに後ろを振り返った。
彼の黒く短い髪の隙間から卑屈に見上げる瞳は、ギョロリと大きくそして青くやつれていた。
紙の様に白くなった顔は不自然に骨格が浮き出て一目で尋常ではない事が知れる。
青白い肌のところどころは生肉の桃色で染まり、じわりと脂汗をかいている。
湿ったアスファルトに座り込みジーンズが濡れることも気にならない。
ただひんやりと冷たさが素足に伝わり冷たくなっていく足に自分のものである事を放棄する。
「…ハァ…ッハァ…」
肩で息をする男はブルブルと震え始め、縋るように自分の肩に爪を立てた。
そして弱い者の精一杯の睨みでもって攻撃するように叫ぶ。
「…誰だッ!お前は、…誰だ!」
ひっくり返った声は怯えしか感じる事ができず、跳ね返ったきた自分の声にまた恐怖が膨れ上がった。
一定の距離を置いて追って来る彼はゴミ箱の向こうで頭を下げてぬらりと立っている。
「やめろっ…!!来るなッ!」
ひた、ひたと。
沼から蘇った死人の様だ。
腰が抜けて無様に手を突っぱねる事しかできない。ゴミ箱の向こうに隠れていた彼が糸を引く様に横へ動いた。
真正面から露になる彼は男を目指し指先を伸ばした。黒ずんだ爪を向けられ男は情けない声をあげどうにか片腕だけで後ろへ下がろうとしている。
彼は垂れ下がる前髪から細い目でつつ、と上を見上げた。月も出ていない薄い灰色の雲に覆われたどこにでもある夜だ。
汚いビルとビルの間、そこらに散らばった生ゴミや煙草の吸殻。
縦に細長い出口はネオンの光をもって輝いて、仕事帰りのサラリーマンだろうか千鳥足で歩いている。
客引きの若い男や女があちらこちらと移動してはまた戻ってきた。
「ひっ…ぅっ…あっ!!」
見上げた空から生臭い匂いのする水溜りに座り込む男へ視線を戻す。
何本もの吸殻から散った中の茶色の草が水溜りにぷかぷか浮いている。波紋を作るのは男で映る顔は彼。
足を大きく開いて倒れこむ男に存外速い動きで近寄ると、彼の恐怖しか大きな瞳に自分が映り込む。
吸殻の浮いた水溜りは男の動きの所為で波紋が幾重にも雪崩れ込み、彼が映りこむ暇はない。
男は彼の前髪から垂れる雨水だろうか、細い蔦の先の丸い水玉が男の顔に落ちるほど近寄られ強張った目はもう一点しか見えていない。
瞬きする事も目を瞑る事も出来ない。目を瞑ってしまえば何をされるか分からないからだ。
「はっ…はっ…ハ、」
短い息を吐くことしか出来ず男にとっては長い時間を彼の目を全身で見つめた。
濡れた網膜の向こうに何がある訳でもないのに。
「……」
彼の米神から伸ばされる手に視線を移すこともできないまま、男はじっと耳鳴りさえ忘れて彼の目を突き刺す様に見ていた。
薄い膜を突き破る様にぬらりと目前にまで現れた黒ずんだ爪に、男はようやく目を閉じた。
身体の力が抜けていく。頭の天辺から煙のように抜けて行き、あの月を隠す雲の一部になるのだろうか。
するりと流れていく涙をジーンズに染みを増やし意識が遠くなっていくのを感じていた。
「また、だ…また…」
頭の中が乗っ取られていく。脳を回転されじわじわと呑まれていき違う自我に抗っても宥められるだけで男はまた涙を流した。
呼吸が楽になってきた。すぅと大きく吸い込むと彼は目を覚ます。
「…何やってンだ俺」
自分がついていた水溜りから不快げな顔をして急いで手を引き上げる。
引き上げても吸殻のゴミは手に纏わりつき水を払う様に手を振った。
濡れたジーンズにも羽織っていたシャツにも汚い生ゴミが張り付いて彼は顔を歪める。
「帰ろ」
立ち上がりさっきまでの男が羨望していた縦長の光を放つ出口へよろめきながら歩いていく。
頭を振りながらビルの壁に手をつき、つつと空を見上げた。
月も出ていない薄い灰色の雲に覆われたどこにでもある夜だ。
汚いビルとビルの間、そこらに散らばった生ゴミや煙草の吸殻。
縦に細長い出口はネオンの光をもって輝いて、仕事帰りのサラリーマンだろうか千鳥足で歩いている。
客引きの若い男や女があちらこちらと移動してはまた戻ってきた。
そんな彼らの仲間に加わり彼は帰っていく。
一度も振り返らない彼の背後には勿論、沼から蘇った死人の様な男はいないし、ただただ恐怖から逃げ回っていた男もいない。
もしかすると逃げ回っていた男は今笑みを作る彼の頭の中の渦に絡め取られ、その中心で叫んでいるのかも知れない。
彼のあと数人の仲間達と一緒に。
終わり。